雀ノ森氷川神社 例祭 10月15日
名称 | 雀ノ森氷川神社 |
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創建 | 不明 |
祭神 | 須佐之男命(すさのお) |
摂末社 | 氷河大明神 榛名神社 稲荷神社 |
建物など | 本殿: 一間社流造、瓦棒葺(覆屋内) 拝殿: 入母屋造 明神鳥居: 「雀ノ森 氷川神社」 x2 社号標: 「指定村社 氷川神社」 灯籠: 1対 手水舎 榛名社 └ 明神鳥居: 榛名神社 稲荷社 └ 靖国鳥居 石祠: 氷河大明神 └ 灯籠: 1対 富士塚・浅間神社 └ 靖国鳥居 石碑: 「工事竣功基本財産献納之碑」 雀ノ森会館 |
文化財 | 川越市指定 有形文化財(建造物): 新宿氷川神社 本殿 |
ご利益 | 武勇長久、勝利祈願、厄除 |
年中行事 | 9月1日: お焚き上げ 10月15日: 例祭 |
●お焚き上げ
9月1日/浅間神社(新宿町1丁目)
白装束をまとった15人の行者が、願い事の書かれたお札を1枚ずつ読み上げ、火に投じます。
「お焚き上げ」の由来 雀ノ森氷川神社氏子会 1994年
古来・山岳信仰は修験道者の間に盛んで、特に日本一の高さと優美な富士山は、昔から庶民の信仰があつかった。 長谷川武邦(角行)は、呪術師でもあり多くの教義を創り、後世に伝えたが1646年没後は、伊藤伊兵衛(食行身禄)があらわれ、角行の教義に従いながら、 更に正直・慈悲・情などの平凡な日常道徳の実践と人心の融和を説き、富士講の講祖と言われた(1733年没)。 身禄の没後、その弟子達は、角行身禄の教えをもとに布教に当たり、富士講を興し、民間信仰として文化・文政年間(1804-1829)江戸では八百八講とも言われ関東一帯に広まった。
江戸幕府は余りにも盛大となったこの民衆の団結と、幕府失政への批判を恐れ、これを禁止させるため、寛保2年から嘉永2年の間に「幕府の町御触」を布告して、干渉、弾圧を加えた。 富士講は、明治政府の神仏分離令やその後、大正12年(1923)の関東大震災・昭和20年(1945)の東京大空襲などの打撃によりその都度組織を弱めていった。
昔、新宿村では文化11年(1815)山吉講社(御水講)に所属し、講が組織されており、大仙波村の浅間神社を参拝していたと思われる(同神社に舎講が奉納した手洗石に他村の講中の銘と共に新宿村講中の刻銘がある)。
明治18年(1885)に、境内に富士塚を築き、雀ノ森氷川神社宮司栗原七蔵氏が富士浅間神社を勧請した。富士浅間神社の祭神木花咲耶姫命が無戸室の猛火の中で夫君の天孫天津彦 彦火瓊 瓊杵尊の3人の皇子を安産した故事にもとづき「火祭」といわれる行事が行われた(古事記)。 又、平安時代初期までは、活火山であった富士山の噴火・噴煙を恐れ、それが早く鎮まるよう祈ったのが「鎮火祭」である(富士吉田市「火祭の由来」にある鎮火大祭)。
新宿村が約50戸の頃、家内安全、病気平癒などの祈願祭として富士講の行者によって始められた「お焚き上げ」が百年余り経った現在も氏子会に引き継がれて、益々盛大に行われている。
毎年、9月1日午前、境内に仮殿を遷し祭壇を設け、神前に小楢の薪を高く積み上げ、四方に注連縄を張って祭場を浄める。午後、氷川神社宮司のもとで氏子総代が参列し、富士浅間神社の祭典を行う。
境内では祭囃子や民踊が奉納され、夜になり最高潮に達する頃、富士講の行者15名ほどが富士行衣(白頭巾、白衣、白手甲、白脚袢、白足袋)に身を清め、鈴を振り神社に経文(富士山御傳)を唱え祈願する。行者は薪の山の廻りに位置し、薪に神火を点じ、燃え盛る炎に篠の箸で家内安全、交通安全、商売繁盛、試験合格、身上安全、病気平癒などの祈願札を差し入れ、大願成就を祈願する。
祭場を取り巻く人々は炎と共に興奮し、自分の名前が唱えられたお札の行方に注視する。お札が高く燃え上がる程、御利益があると言われている。
当日は、地区周辺の老若男女は元より、嫁ぎ先の親戚なども多数参拝し、境内外に露天が処狭しと軒を連ねる様は、夏の終わりを告げる風物詩であり、幼い頃を思い出す一齣であります。
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