長崎で原子爆弾の爆風にみまわれて生き延びた人からも、
東日本大震災の津波に巻き込まれながら生き延びた人からも、
「自分だけが生きていてすまない」
という意味の言葉を受け取りました。
悲しさが込み上げてきます。
状況に関与していないのに、
『申し訳ない』
とはどういうことなのでしょうか。
そんなにも人間というのは罪深いものなのでしょうか。
自分の力の全く及ばない環境に置かれ、
からくも生命をつないだ方の口から、
「生きていて申し訳ない」
という言葉が出てくるのです。
罪悪感の言葉です。
癒されない思いを抱えて生きているのです。
この罪悪感は一体どこから出てくるのか。
キリスト教の文化圏にいる人たちには『原罪』の意識があるのかもしれません。
アダムとイヴが知恵の樹の実を食べてエデンの園を追放された話による罪の意識。
神に対する罪を犯した存在であるという感覚。
しかし、日本人の大半にはリアリティが感じられる話ではありません。
ではなんなのか。
日本においては江戸時代に朱子学を通して儒教の思想が浸透した影響は見過ごせません。
差別思想を強く持つ儒教が、今も日本人を、また日本社会を縛っています。
特に女性が縛られて生きなければならない状況は本当に深刻です。
蔑みの心を生む原因が道徳と結びついているからです。
道徳には儒教の影響があり、差別意識はそれと結びついているのです。
これについては何度言っても言い足りません。
儒教の影響下の道徳心が自分で自分をおとしめる原因なのです。
自分を罪深い人間だとみなしているのです。
教育によって、もたらされています。
しかしどうしてそれを何世代にも渡って受け入れてしまうのでしょうか。
自分を尊んで生きられないものなのでしょうか。
キリスト教の文化圏にせよ日本にせよ罪悪感を受け入れてしまう土壌はどこにあるのか。
それは『忘却』にあります。
人類共通の意識です。
『なんのために生まれて来たかを忘れてしまっている』
ここに罪の意識の原因があるのです。
泣きながら生まれてきて。
この仮想の世界を現実だと信じて生きているという心理。
しかしそれは真実ではない。
心の奥底…真の自分は真実を知っています。
この世界は経験を通した精神の拡張のためにあるということを。
感じ、学ぶことに本当の意義があるということを。
だからそれを忘れたままでいると、この世で生きることに罪悪感が生まれるのです。
生きることは罪ではありません。
あなたも私も貴重な機会を得てこの世に来たのです。
この世に生まれてきた理由を思い出してください。
その道を歩むのが人生です。
そして生きている毎日をお祝いしましょう。
楽しみも苦しみも本来は実体がありません。
この世界に『身体という仮想現実』を通して存在する私たちは、
『この世という仮想』を現実だと思い、
『五感では感じられない真実の世界』を幻のように思ってしまう。
疎外感も、
自分を閉じてしまうことも、
苦しみも、
迷いも、
怒りも、
争いも、
真実を思い出せないことに起因するのです。
真我に気付けば、この世に起こることは全てが大丈夫なんだと思えます。
極限の状況を生き延びられた方に大いなる存在の慈悲が降り注ぎますように。
どうぞ毎日が心安らかでありますように。