この世界に生きる人は、みんなそれぞれの宇宙を生きています。
この考え方を並行宇宙、または多世界解釈といいます。
知覚できる現象からも説明できます。
例えばひとつの部屋に二人でいたとして。
その二人はテーブルをはさんで向かい合って椅子に座っているとします。
同じ時間に同じ空間にいる状態です。
ひとつの部屋にはいますが、向かい合っているので視線の向かう先が異なります。
お互いの背後を見ている状態になります。
つまり同じ空間にいても同じものを見てはいません。
また、その時に何を感じているか、直前にあったことの影響、何が好みかとか。
どんな人生を生きてきたかというようなことまで含めて見る事柄は変わるわけです。
壁のシミが気になったり、ならなかったり、その場にいる相手のことを考えていたり、いなかったり…本当にそれぞれです。
人は同じものを見たり感じたりはしない。
それぞれの視点を持ち生きている。
そしてそのそれぞれの視点の元になるのは自分の心にあるものです。
自分の中にあるものを見ます。
それがそれぞれの視点の正体です。
自分の中にないものは見えない。
そもそも気が付きません。
例えば有名な伝説で、
「ニュートンがリンゴが木から落ちるのを見て『万有引力』を発見した」
というものがありますね。
これは事実そのままかどうかは分かりませんが、その偉大な業績をあらわすアイコンのようになっています。
多分ですが、ニュートンはこうやって自らが発見した法則をこうした喩(たと)えで説明したのではないでしょうか。
それが発見のきっかけのように印象深く今に伝わっているのでしょう。
しかし、素晴らしい視点ですよね。
一般の人はリンゴが木から落ちる様子を、引力の説明に用いたりしません。
「あ、落ちたな」
と思うだけでしょう。
ですがこの世の法則について考え抜いていたニュートンにとってはこれはまさに引力という法則のわかりやすい現象に見えたのです。
喩え話にできる視点があったのです。
そのように世界が見えていたわけです。
それが伝説になったんですね。
自分の中にあるものが見えるんです。
自分の中にないものは見えない。
例えば誰かを憎いと思うとします。
心の中にそのような感情がわいたとして。
それはその人の中にそれがあるからそういうふうに感じるのです。
憎しみの感情がない人は憎しみを理解しません。
だから憎めない。
他人の憎しみもわかりません。
自分の心の中に反応する媒体があるから反応するんです。
これは重要な人間の心の法則です。
他人ではない、自分なんです。
何に反応するか。
ある物事には反応しないけど、別のあることにはすごく反応するという場合もある。
それはその物事が自分の中にあるということになります。
自分の心に大きくある方が感情はより大きく動く。
つまり人に向かって強く感じることほど自分の心の中に大きくそれがあるというわけです。
となると。
興味のある度合いと同じです。
好きレベル、嫌いレベルのような。
このレベルの大きさは自分の心の中にあるものですよね。
となると。
他人を攻撃するということは、自分を攻撃することになります。
他者への排撃は自分への排撃です。
嫌だなと感じるものは自分の心の内側が外にあらわれているものだからです。
なので。
見えてくるあらゆる現象に慈しみの心で接してください。
それは全て自分自身だからです。
信じがたい話ですが、これが本当なんです。
世の中がひどい事件で満たされていると感じるとしたら、それは自分の心がひどさで満たされているのです。
ひどいと思って見ればそうなります。
悲しい事件の背景はなんなのか。
それはこの世界の真実を知ることができない悲しさです。
この世になぜ生まれ、なぜ生きるのか。
それがわからないから苦しんで人を巻き添えにして、
己の苦しみを知ってもらおうとするのです。
そのような人に厳しさで接すれば、憎悪は増幅します。
理解し、この世の意味を伝えることが必要です。
それが求められていることです。
誰が求めるのか?
それは神と言ってもいい、
絶対なる存在と言ってもいい、
宇宙の法則といってもいい、
大いなる全体のことです。
慈しみを求めているのです。
慈しみの視点で見ればそのように見えます。
そうすれば深い悲しみから解放される生き方につながります。
そのように方向づけられます。
どのような感情を抱くときも自分の心の内側を見るようにすれば、自分は解放されていきます。
真の霊的な世界を伝える人はこのようなことについて語るものです。
天理教の教祖はこの慈しみを「神の守護」と語り、
自分の心の内側が外にあらわれて見える現象を、
「この世は鏡屋敷」
と教えました。
心は鏡に映したようなものだと。
まさに霊的な喩えです。
単なる道徳心ではない。
宇宙の法則を知った上で人間の心を語った話なのです。