儒教の『孝』の思想は、
「父母に仕えて力を尽くす」
ということをこの世始まって以来の自然なことのように語っています。
しかし子どもは親に尽くす存在ではではありません。
それは家庭の中にタテ社会を作る思想であり、家庭内の不和を呼ぶものです。
親が「子どもは親に尽くすもの」と考えていたらどうなるか。
子どもが従順であれば、親に仕える…すなわち家来か子分か奴隷になります。
子どもが反発すれば親子で対立が生まれます。
対立が高じれば家庭内暴力にまで発展するでしょう。
親が子どもにしつけと称して虐待する時はこうした背景があります。
その親にとっては正しいことなのです。
儒教という思想のバックボーンがあるのです。
本人はそれとは思っていませんが。
折り合いをつけてやり過ごしている家庭がほとんどと思います。
しかし子どもにとっては親とはそのようなものだと理解することになります。
そのような縛りから目覚めている人は別です。
社会でもタテの人間関係には重みがあります。
公的な機関では今でもはっきり基準になっています。
『長幼の序』
すなわち「年少者は年長者をうやまい従わなければならない」という考えがそれです。
この考えが基づくと年少者は年長者の間違いを指摘することは大変困難です。
無理にそれをするとどうなるか。
考えるのも嫌になりますね。
年長者は自分に対して意見してくる年少者を抑圧にかかります。
私たちの社会の姿です。
年長である自分を敬わない道徳の欠如した人間として裁いて当然と考えます。
それが私たちの社会です。
いつも社会のどこかで感情がくすぶっています。
火種を常に抱えています。
着火する機会があれば火が出る。
外に向かえば暴力になるし、自分に向かえば自傷行為になります。
刃傷沙汰や暴言などの極端なあらわれ方をしなくても起こります。
自尊感情が持てないのも自傷行為のひとつですし、
人を裁こうとする心理も暴力のひとつです。
そのようなものを抱えて続けているのが私たちの社会。
だからみんな逃げ出したいのです。
でも。
私たちの社会を放り出してどこにいくのでしょう。
私たちはこの身体の生命あるかぎりこの共同体と共にあるのです。
緊急のときを除き、逃げて終わりにはできません。
みんなが社会や家庭に何を持ち寄れるか。
それを考えましょう。
我慢以外の何かを持ち寄れるはずです。
まずこの道徳思想を徹底的に考えなければなりません。
日本で教育を受けた人でこの影響を受けていない人はいません。
どころか東アジア一帯の人々はみんな影響を受けています。
道徳教育の影響で私たちはこの思想を受け入れてしまっているのです。
自分の心を見る必要があります。
心を使うのです。
心は「見きわめ」のためのセンサー。
これを活かすしかありません。
我慢はセンサーの感度を落とします。
喜びはセンサーの感度を上げます。
喜びに触れない思想は社会を圧迫します。
喜びで人は本当につながることができます。
そして本当の平和が実現します。
儒教思想は愛の欠けた戒律です。
愛なき戒律が縛る社会。
それが日本。
もうそのような社会から卒業する時期に来ています。