4日間お休み。仕事らしきことは何もしていない。町の神社のお祭りにでかけ、スーパーにでかけ、コンビニにでかけ、外食にでかけた。私の大の苦手は「何もしないこと」。いっつも「何かせねば」と心がせわしない。親愛なる恩師、水澤都加佐氏に「何かしなきゃいられないってのは病気です」とお墨付きをいただいているからな…この数年は努めて「な・に・も・し・な・い」練習を積み重ねている。なんとか4日間くらいは何もしないでいられるようになった。
もう一つ、苦手がある。以前にも書いた「部屋の掃除」。部屋と言っても「自分の部屋」。取りかかろうとすると、理由のわからない苦痛に襲われる。例えるならば、責め立てられる中を必死に「ぐぬぬぬ」と黙して耐えているといった感覚。今まで、そういった感覚に陥っても、さしておかしいとは思わず、そういう性格なのだと切って捨てていた。当然、めったに掃除しない部屋は足の踏み場がない。自分の部屋以外の掃除はむしろ好きなくらい、きれいになるのが気持ちいい。おかしい。ヘンだ。自分の心に耳をすませてみる。どうも「机」に何か関係があるらしいことがわかってきた。「自分の机」そういえば、会社勤めをしていたときもそうだった。デスクの上を片付けるのは、常に後回しであった。どうも「机」にまつわる思い通りにならない怒り、悲しみの体験をかつてしたらしい。
自分の中の小さな子供の声を聴いてみる。そう、初めての勉強机は、亡き父の机であった。常に異常なほど綺麗に整頓されていた机。父の死後、私の勉強机となった。その机を使うのはとても嫌だった。ずっと嫌だった。そして、何かでしかられたあとは「机の上を綺麗にしなさい」という言葉がくっついていた。机の上を片付けることは「罰」だった。いつしか、机の掃除は、私の罪悪感の象徴となっていたのだ。
今日は朝から「のんびり」と掃除をする。なぜ「のんびり」か。自分の部屋の掃除をしようとすると、背中から何か得たいのしれないモノが追い立てる。「早くしろ!」「そんなこともできないのか!」と。そう、いつもこの声に苛まれ、必死に耐えていたのだ。今日はその声に「また来てくれたね。気遣ってくれて、ありがとう。いつもすまんね。一つお願いがある。心配してくれるのは感謝しているから、暴れないでくれないかい?」と声をかけた。そして、小さな泣いている子に「あなたは何も間違っていない。何も悪くないよ」と声をかけた。気づくと肩が軽くなっていた。
もう一つ、苦手がある。以前にも書いた「部屋の掃除」。部屋と言っても「自分の部屋」。取りかかろうとすると、理由のわからない苦痛に襲われる。例えるならば、責め立てられる中を必死に「ぐぬぬぬ」と黙して耐えているといった感覚。今まで、そういった感覚に陥っても、さしておかしいとは思わず、そういう性格なのだと切って捨てていた。当然、めったに掃除しない部屋は足の踏み場がない。自分の部屋以外の掃除はむしろ好きなくらい、きれいになるのが気持ちいい。おかしい。ヘンだ。自分の心に耳をすませてみる。どうも「机」に何か関係があるらしいことがわかってきた。「自分の机」そういえば、会社勤めをしていたときもそうだった。デスクの上を片付けるのは、常に後回しであった。どうも「机」にまつわる思い通りにならない怒り、悲しみの体験をかつてしたらしい。
自分の中の小さな子供の声を聴いてみる。そう、初めての勉強机は、亡き父の机であった。常に異常なほど綺麗に整頓されていた机。父の死後、私の勉強机となった。その机を使うのはとても嫌だった。ずっと嫌だった。そして、何かでしかられたあとは「机の上を綺麗にしなさい」という言葉がくっついていた。机の上を片付けることは「罰」だった。いつしか、机の掃除は、私の罪悪感の象徴となっていたのだ。
今日は朝から「のんびり」と掃除をする。なぜ「のんびり」か。自分の部屋の掃除をしようとすると、背中から何か得たいのしれないモノが追い立てる。「早くしろ!」「そんなこともできないのか!」と。そう、いつもこの声に苛まれ、必死に耐えていたのだ。今日はその声に「また来てくれたね。気遣ってくれて、ありがとう。いつもすまんね。一つお願いがある。心配してくれるのは感謝しているから、暴れないでくれないかい?」と声をかけた。そして、小さな泣いている子に「あなたは何も間違っていない。何も悪くないよ」と声をかけた。気づくと肩が軽くなっていた。
床の拭き掃除が大好きです。
でもでも。。。ものの片づけが。。。やってもきれいにならないんです。
>理由のわからない苦痛に襲われる。
いつもそうです。
胃が締め付けられるようなときもあります。
自分の声に耳を傾けてみましょうか?
少しづつ。。。。
ある人は、「ボーっとしてるのが苦痛」だそうです。
私は、ごたごたが無い時(又はあっても軽いとき)は、ぼ~っとしてようが、何にもしていなかろうが、平気というか・・・それが日常です。
でも一度混乱すると、じっとしてはいられません。
自分の中の赤ん坊が、最近いろんな人にあやしてもらうので、私じゃ余計ぐずるようになってしまって。
苦いもの、すっぱいものしか与えてこなかったし。
とりあえず、混乱しないよう、暴走しないよう、祈るだけです。
ちょっとお久しぶりですね。
お父さんの机ですか・・。
たぶんそれにはお父さんの「気」が入ってるんでしょうね。
そういう気と相性が合わない場合は苦労するものです。
モノには持ち主の気が宿るんですが、気質が違うとそれが跳ね返される。
無理になじもうとしても、なじまないで苦しむわけです。
実は、そういう場合は、徹底的に掃除をしてみるのも方法です。
それがダメなら色を変えるとか、新しいカバーをかけるとか変えてみる。
好きな物を机上に置いてみるとかですね。
それで、ダメならきちんと「供養」して捨ててしまう・・。
そういう方法でも良かったと思います。
掃除に関しては、僕は気がついた時点でコツコツやるようにしています。
凝り性ですから、やり出したら止まりません。
自分でも納得するまでやっています・・(笑)。
掃除のコツは、一気にやるのではなく、「今日はここだけ・・あとは明日」という風に、パーツに分けてコツコツやることですね。
そうすると、いつの間にか、部屋も片付いてしまうものです。
最後に、せきたてられるような感情は・・。
これは、ある種の「強迫観念」ですね。
何かをしなければいけない・・という気持ちに追われているとそうなるのだと思います。
本当は、何にも追いかけてくるものはないのにですね。
つまりそれは、自分だけが作り上げてしまった妄想の1つだということです。
不安の感情のコントロールは、実は呼吸1つでできますから、やってみることです。
深く静かな呼吸に集中していけば10分で気持ちも落ち着くはずです。
どろさんなら、呼吸の制御も簡単にできるはずです。
落ち着いたら、そこで不安になった理由を考えてみる。
静かに自分と向き合うことですね・・。
ただ静かに・・。客観的に・・。
人間とはそういうものも解決できる智恵があるものですよね(笑)。
禅には「大死底の人」という思想もありますね。
いざと言う時、死ぬのを怖がるから、ジタバタして何も見えなくなる。
ジタバタしないのは、腹がくくれているかどうかです。
つまり「胆力」の勝負だということです。
そういうジタバタしない胆力ある自分を作ることも心の修行ですね。
「だからこそ楽しい」
この言葉が私の心に流れているから生きられる。生かされている。おかげさま。ありがたいことですあります。
え~っ?うっそ~ん(笑)(^○^)
ちょっとだけ聞いちゃおうっと。
輪廻転生は信じていらっしゃらないのでしょうか?
単純に自分が終わるのが怖い。なくなるのが怖い。
↓
死を怖がるのは恥ずかしいことだ。怖がるのはやめよう(見ないフリをしよう)
↓
怖がることはありのままだ
↓
死は怖い。考えても仕方がない。
「死が怖い」と「経験したことのないものは考えてもしかたがない。なるようになる」を「でも」という背反で接続する必要はなく「あるようにある」でそのまま併存させています。それでいいんだと。目の前の「今」を生きることしかできません。それがシンプルな現実です。「怖さ」を怖がらなくてもよいと知っただけですよ。
輪廻転生についてですが、たぶん、トリトンさが言われる「輪廻転生」と私のそれでは、だいぶ趣きが違う概念となっていると思います。人格や意識の継続といった視点で「生まれ変わる」ということならば、これはあろうがなかろうが、私はどうでもよいことだととらえています。信じてもいいし、信じなくてもいいし。信じることによって何かもたらされるかもしれないし、信じないことによってもまた、何かが生じます。多くの人々が憧憬や畏怖の念をあわせもって輪廻を問いますが(私もかつてはそうでした)、輪廻とは迷いのシステムのことです。すでに誰もがこのシステムに過去現在未来にわたって取り込まれています。たった今も。この循環から抜け出すことを「解脱」というわけですが、これもまたイメージしたり、たくさんの仏教用語(概念)を使って整理するだけでは所詮、脳の中の物語。私はこの一生が続く限りの、体と心を総動員した「今」の課題、つまり「生きること」だと受け取っています。
輪廻転生を認識しようがしまいが、今がどうなのかが重要だと思います。
今が「幸せ」かどうかですね。
そう思える生き方をしているかどうか・・。
今日1日が充実しているかどうか・・。
その意味で、僕が考えるお坊様とは、この世とあの世の境界に立って、マクロ的な世界観から処々の人生を見ている人なのです。
前世~今世~来世・・魂の傾向性、業というものが見抜けてこそ本物であり、真に人を救える者でもある。
仏の智恵の体現者だということですね。
その智恵とは、不安の解消というものではなく、真理を極めたいという欲求の結果ではないかと思います。
そういう知恵者こそ、人の悩みも解ける・・。
まあ、理想を言えばそういうことですね(笑)。
そりゃまたすごい人ですね…まるでえんま様のようです(笑)。日本には「あの世に行く」よりも「あの世に帰る」という心情が強いでしょう。そういうの好きですよ。天国なんざいかんでもいい。あの世に帰りましょって。みんないますよ~と。私も「あの世で待っててくれよー」とか「あの世で待ってるからなー」なんて言いたいですね。