泥から咲いた蓮の花

現在、リハビリ中なブログです。長い目で見守ってくだせ~

「人の本質は愛であり魂なのである」

2005-09-26 09:55:24 | どろな話
敬愛する梅宮敬之さんから「ペイフォワードで」と一冊の本をいただいた。

『天国への橋』総合法令出版
ハイブロー武蔵著/定価 1,260円(税込)/四六判・上製

ネイティブ・アメリカンの伝承と言われる二つの短い物語。そして著者の三つの物語からなる絵本。作者不詳の二つの物語は「虹の橋」という題名で、インターネットを通じて世界中に浸透している。

7頁目で涙があふれた本も珍しい。この世に誕生し、今の今まで、命のとても素直な願いが上手く叶わなかったことを、必死に忘れようと努力してきた。

「愛されたかった」

それを率直に感じ、そして表現するには、あまりにも欲求通りではない現実を突きつけられ、たくさん傷ついてきたことを、この魂はよくわかっている。でも、それは叶う。その希望をストレートに与えてくれたことに感謝したい。

小学校4年。母親が手提げ袋に一匹の子犬を入れて帰ってきた。その子犬の寂しそうな、今にも泣き出しそうな瞳を忘れない。ずっと孤独に感じていた子供時代。一匹の小さな犬の存在はそれまでの私の世界を大きく変えた。マリと名づけられた子犬。毎日、散歩にでかけ、公園で走り回った。いろんなところに一緒に歩いた。ガラスの破片を踏んで足を切り、血を流すマリの姿をみて、この世が終わるのではないかというほど心配した。野良猫を追いかけて、逆にやられてしっぽをまるめて逃げてくる姿をみて笑った。

そのマリに子犬が生まれた。5匹の子犬たちはそれぞれ、知己の人にもらわれていった。その頃からだろうか。マリは近所の子を噛んだり、祖母の手を噛み、何針も縫うケガをさせた。二度目の出産。5匹産み、2匹は死産だった。近所からは噛み犬として評され、祖母からは蛇蝎の如く嫌われた。

ある日、マリは消えた。母はどうしても飼えなくなったマリを保健所に連れて行った。私は母を責めずに、マリをしっかり飼えなかった自分を責めて泣いた。一緒にいられたのは、たった数年だったが、未だに忘れはしない。

愛する者との別れる痛みを受け入れることとは。私たちはいったい何者なのか。何に生きているのか。そんな大切なことに大きな示唆を与えてくれる『天国への橋』。

マリ。そして今まで一緒にいて、旅立った小さな動物たち。きっと虹のふもとで私を待っている。愛されたい、許されたいと願って歩いてきたこの魂を待ってくれている。天国への橋である虹のふもとで。また会える。君たちも頑張ったんだ。だから、私も頑張るよ。ずっと待っててくれている君たちにありがとう。

僕は今、とても幸せです

2005-09-23 14:12:21 | どろな話
今月17日、先に紹介した古市佳央さんの講演が聞きたくて、NPO法人読書普及協会埼玉支部主催の「読書のするめ~灯火」に参加した。

古市さんが著書『這い上がり』の前書きで4年前に記した

これからの僕の目標は、「この体になって良かった」と心から言えることだ。そして、言える日は必ず来る。

この願い。『這い上がり』を読んだとき、その日が来ること、そしてその過程を分かち合いたいと思っていた。講演で、古市さんの軽妙かつ明るい話し方に、深い思いを感じながら聞き入った。そして結びに放った言葉。

僕は今、とても幸せです。「この体になって良かった」と言える日が来たんです

ハッとした。別の身体と心を持ち、別の人生を歩んできた古市さんと私なのに、自分が嬉しいのだ。「私が私でよかった」と思える深い安寧の不思議なシンクロは、人生の中で、そう滅多に出会えるものではないと思う。愛車のゼファー1100君と共に、頑張ってでかけていってよかった。得難い体験。本当にありがとう。その後、古市さんと居酒屋で膝をつきあわせて一献傾けた。私は運転があるからウーロン茶だったけど、「出会いで人は変わる」という彼の言葉はとても深かった。

この日、多くの素敵な出会いがあった。同じく講演した笑顔配達人・紺野大輝さん。一言でいえば「自己信頼の聖者」。その人となりと活動は、紺野さんのサイトを見てもらいたい。
「笑顔がいいね」
『にこにこ』日記

10月29日(土)、このお二人がジョイントで名古屋で講演する。「自分を信じることができない」「私なんてしょせん…」「どうせダメだ」と感じて、人生が上手くいかないと嘆いているならば、どうか紺野さんと古市さんの二人の生き様から勇気をもらって欲しい。私も参加します。

「人生に代打はいない!」(in名古屋)
~人生の決定権は全て自分が持っている~

日時:2005年10月29日(土)18時30分~20時30分
講師:「笑顔がいいね」代表 紺野大輝
会場:愛知県勤労会館 [つるまいプラザ] 第1視聴覚室
詳細・申し込みは→こちらへ!

「ありがとうの気持ち」

2005-09-22 12:57:11 | どろな話
こんな日記に出会った。深呼吸して、心を落ち着けて、ゆっくりと読んでほしい。

この気持ちを忘れないうちに記録に残しておく。

私がこの世界に生まれ生きていることに、ここにいることに、ありがとう
私がこの世界にいるためにたくさんの方々の力を借りてます。

まず両親、生んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう。
一緒に育った兄弟たち。苦楽を共に生きてきた、ありがとう。
たくさんの友人たち、一緒に笑い一緒に泣いてくれた、ありがとう。
他人の方々、知らない私に親切にしてくれた。
私の知らないところで一生懸命に働いて世界を動かしてくれている。
バスや電車で移動できるのも、私の口に食べ物が入ってくるのも、そのほかたくさんの私が生きていくのに便利なのはみんなみんなまだ知らない方々のおかげさま。ありがとう。
たくさんの命を犠牲にして私に生きる力を与えてくださった、生き物たち、ありがとう。
そして、この生きる場所、空気、水、この世界があってこそ、ありがとう。
みんなみんな、皆さんたくさんの方々のおかげさま
ありがとう、ありがとう、ありがとうございます!

何気なく、お話しているときにふと言った言葉でした。
なんて力のある言葉だろうと、言った後で思いました。
とても素敵な気持ちになりました。
心から感謝の気持ちでいっぱいになりました。
まずは自分にありがとう、そしてその自分があるのはたくさんの自分以外の存在のおかげさま。
みんなみんなにありがとう!!


悲しみの力学

感謝は「大切にする心」でできている。
「大切にする心」は「悲しみ」の側面だ。
私たちは、悲しみをもって生まれたから、
何かを、そして誰かを大切にできる。

その悲しみを忌み嫌えば、大切にする心の
発動も抑えてしまう。すると「ありがとう」は
ただの音になる。

この日記を書いた人は、たくさんたくさん
悲しんできた人だ。それでも頑張って生きて
きた人だ。「悲しみ」を大切に扱おう。
そこにもありがとうを言ってみよう。
きっと世界がかわる。
きっと、よくなる。

あなたはあなたでいられる。
みんながみんなでいられる。

あなたの自分の悲しみをどう扱っていますか?
(親愛なるミヒロさん。パクりました。ゆるしてね!)

「過去より、未来」

2005-09-13 01:18:33 | どろな話
『這い上がり』
―ある「顔」の喪失と再生の半生記―
古市佳央著(ワニブックス 本体1429円+税 A5判190頁)


人は変われる―そう確信させてくれる久しぶりの好著に出会う。もし事にあたって「変われない」「できない」と感じているとしたら、著者が紡ぐこの物語に触れた時、その思いは一変するだろう。はかりしれない勇気を与えてくれたことに感謝したい。

8月20日、楽祥さん主宰の「Thanks&Harmony!の会」に講演に呼ばれ、東京・台東区民会館に赴く。会開催の前、開館のロビーで、颯爽と歩く、ブルーのシャツを着た長身で金髪のサングラスの男性とすれ違う。「ただもんじゃねえな」と直感でわかる。オーラと言ってもいいし、雰囲気といってもいい。過酷な、そして凄惨な道のりを歩いてきた人が発する特有の匂いだ。

そして講演。彼は会場にいた。壁に背を貼り付けるように静かに座っていた。休憩時間、静かな声で話しかけてきたのは彼だった。
「私も単車乗っていたんですよ。事故で燃えて、こうなったんですけど…」
彼の顔は重度熱傷を負い、そしてなんとか再生の試みを繰り返したきた風貌だとわかる。私は嬉しかった。普段、誰にも話さない過去を、用意してきた話をとりやめてぶちまけた後の第一声が彼だった。ありがとう。
少しく話した後、彼はこう言った。
「こんな目にあわなければ、私はわからなかったんですよ」

この言葉。私は今まで生きた中の最もつらい出来事を思い出し、そう言えるだろうか。「これでちょうどよかったんです」と言いたいと思いながら、言えない自分を発見する。頭が下がる。高校一年でバイク事故。炎上。体表面の41%を重度熱傷。過酷な入院生活と再生手術の連続。信じていた自分の「姿」を喪失。その事実に向き合った、そして向き合わざるえなかった彼の煩悶の物語を『這い上がり』で謹んで分けてもらった。どうか、著者のサイト古市氏のサイトを見て欲しい。そして、その後の彼の取り組みを分かち合ってほしい。

『這い上がり』で綴られる古市氏の言葉。まずもって「率直」の力に心を打たれた。どれだけ、私たちはこの「率直」を失い、再生の力に歯止めをかけているだろうか。著書の前書きで古市氏は

なぜ、死んでしまわなかったのか。どうして生き続けているのか。なぜ俺だけがこんなつらい仕打ちを受けるのか。俺よりひどいことをしてきた人間を野放しにして、なぜ、なぜ、なぜ…。

でも、あるとき僕は思った。生き残ったことに、何か意味があるのではないかと。もしかしたら、僕にはやるべきことがあるのかもしれないと。


勉強でも運動でも、やれば一番になれた。負けず嫌いで誰よりも一番でいたかった。100人の女がいれば、全員を自分に振り向かせることができると信じていた。やりたいことをやっていた。何も怖いものはなかった負けず嫌いの青年が、一瞬にして人生のすべてを失ったかのような体験をする。長い入院生活、30回以上の皮膚再生手術。死んでいてもおかしくはなかった事故と、そして限りない体の痛み、顔や手の容姿を大きく失ったことへの深い喪失感。まさに体も心も死地にいた彼が、同じ入院患者や看護婦、周囲の人々と、そして家族との触れ合いで再生していく。そのおかげさまの階段をのぼったのは、なによりも、彼のもつ「負けず嫌い」の力、彼の持つ命そのものの力だったのだろう。

現在、中古車販売業の経営を手がけ、忙しい毎日を送りながら、「オープンハートの会」を主宰し、同様の苦痛を抱える人々が安心して集まれる場、そして施設設立を目指して活動している。社会復帰の困難さ、周囲の視線や偏見、今もなおそれと戦い続ける彼のメッセージ

「僕も頑張っている、だからみんなも頑張れ」



古市佳央さんが下記講演会でお話しします。私も参加します。

今月17日 NPO読書普及協会埼玉支部主宰
「埼玉ほんのするめ~灯火」

時間 13時半~17時
場所 埼玉県労働会館(JR北浦和駅西口下車徒歩5分)
費用 会員1,000円、非会員2,000円 

第1部
笑顔配達人 紺野大輝さん
「ありのままを受け入れる~それが本当の自分だから」
~自分らしさを取り戻したいあなたへ~

第2部
「三人三様 なぜそうなるの?」

おじさん(埼玉支部顧問 キャリアカウンセラー 虻川さん)
美女(埼玉福支部長 会社員 武田さん)
若者(埼玉支部学生代表 学生 高橋さん)

第3部
古市佳央さん
「君の力になりたい」

「自分探しの旅、やめよう」

2005-09-03 15:11:55 | どろな話
『こどもたちへ』水谷修著 定価(本体1200円+税)107頁

「自分探しの旅、やめよう」帯に書かれた水谷修の言葉。私は「自分探し」という言葉、嫌いです。探してもありません。だって、そこにある。そこにあるのに、なぜ、どこかに「自分」を探そうとするのだろう。「自分探し」という言葉は、自分を見据えないための言葉だ。その昔、古舘伊知郎の話を伺う機会があり、「自分探し」に関する話に共感し盛り上がったことを記憶している。

「自分さがし」なんていうのは道なき道を行く大冒険の旅なんだろうけど、この便利な世の中で、「等身大の自分」「自分らしく生きる」は、楽に生きたい、楽しく生きたいということ。「自分に正直に生きる」「素直な自分に立ち返る」「本当の自分になれる」というのは、いじわるに言えば、わがままに生きたいという欲求の表れ。かなりの苦しさを経験し、自分のわがままを剥がしていってこそ、本当の自分が立ち上がってくると思う。

ポジティブ思考も勘違いされているように思う。お釈迦さまは、相当なネガティブな海を泳いで、生老病死から始まり、人生は苦であると思い知った果てにポジティブに死んでいったと思うんですね。そういったネガティブな海を漂流せずに、いきなりポジティブの海があると勘違いしている。それは自分に対しても感じますよ。気づけば自分も安易な方向に流れますから。


古舘の言う「安易」とは努力しないとか、逃げるとか、そういうことではない。ネガティブな経験とそこで感じるつらい感情をありのままに見据えないということだ。「寂しさは、寂しい者同士が語り合っても、癒せるものではありません。寂しい。それではいけませんか?(本文より)」と水谷は問う。愛されたいとこの世に生まれた命。思い通りに愛を与えられることがないという試練の旅を皆が歩いている。それこそネガティブな海の漂流だ。へこたれまいと平気なフリをした。そんなことは恥ずかしくいけないことだと愛想笑いで通した。平気なフリも、愛想笑いも手放して、自分の寂しさを丸ごと受け入れてあげよう。寂しい自分を放置して、どこかに本当の自分があるわけない。そんな荒唐無稽なことに時間と心のエネルギーを費やすのはやめよう。心にネガティブもポジティブもない。丸ごと自分を受け入れて、遠慮なく愛すればいい。まずは自分を幸せにしていこう。そして精一杯の笑顔を人に向けていこう。