使い始めてどれくらい経つだろう。最初は知人にすすめられて購入したPHSだった。当時は、携帯電話よりはるかに音質がよかったPHS。料金も安かった。現在、仕事と私用と2台使っているが、一時は5万円以上していた月々の通話料。今は2台あわせても1万円いかない。使用頻度が激減した。理由は電話コミュニケーションをほとんどとらなくなったということ。とらなくても平気になったということ。メールもほとんど使わない。
友人のAyakoさんが携帯の依存度を改めて考える事件に遭遇。携帯電話があることに依存して、待ち合わせなど、確実に決めないことが多い。待ち合わせ場所についたら連絡すればいいと思っているのは確か。私の20代は携帯電話はなかった。知人との待ち合わせは「何時何分。どこそこで」と時間と場所を確約したもの。今でも、そうすることはあるが、目的地に着くか着かないかで「着いたよ」とか「ごめん、五分遅れる」なんて連絡をしたり。携帯を持っていない時は、ひたすら「何時何分に○○にいる」ことを信じて、そう行動したものだ。ある意味、任務遂行力が必要だったが、今はなんとかなると思ってしまう。
なんとかなると思うことは楽だ。しかし、それは携帯電話の存在という裏付けがあってこそ。それが使えない事態になれば、まことに無力だということを思い知る。あくまで道具。壊れることもあるね。これって、人間関係も自分の心や身体に対しても、言えることではないか。壊れることもある。無力なこともある。過信はトラブルのもと。備えあれば憂いなし。備えることは、心の余裕から生まれるのかな。そんなことを考える。まあ、なければないでなんとかなるだろーと、携帯電話の電波感知が圏外になると妙に安心する私は思う。
友人のAyakoさんが携帯の依存度を改めて考える事件に遭遇。携帯電話があることに依存して、待ち合わせなど、確実に決めないことが多い。待ち合わせ場所についたら連絡すればいいと思っているのは確か。私の20代は携帯電話はなかった。知人との待ち合わせは「何時何分。どこそこで」と時間と場所を確約したもの。今でも、そうすることはあるが、目的地に着くか着かないかで「着いたよ」とか「ごめん、五分遅れる」なんて連絡をしたり。携帯を持っていない時は、ひたすら「何時何分に○○にいる」ことを信じて、そう行動したものだ。ある意味、任務遂行力が必要だったが、今はなんとかなると思ってしまう。
なんとかなると思うことは楽だ。しかし、それは携帯電話の存在という裏付けがあってこそ。それが使えない事態になれば、まことに無力だということを思い知る。あくまで道具。壊れることもあるね。これって、人間関係も自分の心や身体に対しても、言えることではないか。壊れることもある。無力なこともある。過信はトラブルのもと。備えあれば憂いなし。備えることは、心の余裕から生まれるのかな。そんなことを考える。まあ、なければないでなんとかなるだろーと、携帯電話の電波感知が圏外になると妙に安心する私は思う。