夏目漱石が好きで、作品の大半は読んだのだが、なんと『坊ちゃん』を読んでなかった。漱石の中ではもっともポピュラーな作品だと思うし、『坊っちゃん』だけは知っている人も多かろうが、つい読みそびれて「今さら…」をずーっと重ねてきてしまった。
『坊っちゃん』は主人公の一人称で語られる。すべて主人公の目を通した出来事、そして主人公の内面の語りによって構成される。客観的視点はない。「坊っちゃん」という呼び名は、主人公の家に下女として働いていた「清」が主人公に使う呼称だ。
「親譲りの無鉄砲」「乱暴者」。だけども人情厚く「おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない」なんて江戸っ子が、四国の中学校に数学教師として赴任。校長をはじめ他の教師、生徒たちとの間で、坊っちゃんの直情型の怒りを滑稽風味な味付けで炸裂しまくるのが、とても愉快だ。登場人物たちへのあだ名の付け方が粋で、彼たちへの毎度ながらのこき下ろし評が笑える。どかーんと学校をやめて東京に帰ってくるまでを描く。情け深い頑固な正義漢の八つ当たりかんしゃく物語。
「一緒に読もう!」運動を持ちかけ、その通りに応じてくれた親愛なるAyako女が、読み進めている中で主人公の行動を「ているのでなんだか腑に落ちない。というか、心配になる。もうちょっと考えて動けよーなんて突っ込みながら読んでいた。それが坊ちゃんなのに」と書いている。そう、ハラハラするのだ。つい「そこまでするか…」「おいおい、それはないだろ」「そのへんでやめておこうよ」なんて声が心に響き、主人公の一挙手一投足に心を砕いてしまう。そんな主人公にも、ほっとする存在がある。東京に残してきた「清」。唯一自分を可愛がってくれた、認めてくれていた母親のような存在。ことあるごとに「清」を思い出すところが、とても人間くさい。
漱石がこの作品を書いた当時、文芸の世界は「近代小説理論」とやらの時流によって、大きくその姿を変えていった頃。漱石はその流れに逆らい、それ以前の江戸期の価値観への復古(近代化への反発)をしたと言われる。この作品を読んで、ハラハラしてしまいながらも、なんとなく爽やかな痛快を感じるのは、私たちもまた世間や時代になんとか乗り遅れまいとあがく一方、本音の自分が坊っちゃん風に言うならば「大嫌いだ」とかんしゃく起こしながら生きている部分があるからだ。これが時代を越えてもなお、人々に親しまれる理由だと思う。
そんな主人公だけど、作品の一人称の語りは極めて冷静かつ滑稽。長年読みつけている座右の書『吾輩は猫である』の猫の視点と語りにそっくりで、私にとってとても親しみやすい漱石がここにいる。と、つらつら書いてきたけれど、この作品はコメディーだね。だって、かなり笑えるもの。この勢いで自分の生き様も笑い飛ばせるならば、きっと幸せだろうな。
『坊っちゃん』は主人公の一人称で語られる。すべて主人公の目を通した出来事、そして主人公の内面の語りによって構成される。客観的視点はない。「坊っちゃん」という呼び名は、主人公の家に下女として働いていた「清」が主人公に使う呼称だ。
「親譲りの無鉄砲」「乱暴者」。だけども人情厚く「おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない」なんて江戸っ子が、四国の中学校に数学教師として赴任。校長をはじめ他の教師、生徒たちとの間で、坊っちゃんの直情型の怒りを滑稽風味な味付けで炸裂しまくるのが、とても愉快だ。登場人物たちへのあだ名の付け方が粋で、彼たちへの毎度ながらのこき下ろし評が笑える。どかーんと学校をやめて東京に帰ってくるまでを描く。情け深い頑固な正義漢の八つ当たりかんしゃく物語。
「一緒に読もう!」運動を持ちかけ、その通りに応じてくれた親愛なるAyako女が、読み進めている中で主人公の行動を「ているのでなんだか腑に落ちない。というか、心配になる。もうちょっと考えて動けよーなんて突っ込みながら読んでいた。それが坊ちゃんなのに」と書いている。そう、ハラハラするのだ。つい「そこまでするか…」「おいおい、それはないだろ」「そのへんでやめておこうよ」なんて声が心に響き、主人公の一挙手一投足に心を砕いてしまう。そんな主人公にも、ほっとする存在がある。東京に残してきた「清」。唯一自分を可愛がってくれた、認めてくれていた母親のような存在。ことあるごとに「清」を思い出すところが、とても人間くさい。
漱石がこの作品を書いた当時、文芸の世界は「近代小説理論」とやらの時流によって、大きくその姿を変えていった頃。漱石はその流れに逆らい、それ以前の江戸期の価値観への復古(近代化への反発)をしたと言われる。この作品を読んで、ハラハラしてしまいながらも、なんとなく爽やかな痛快を感じるのは、私たちもまた世間や時代になんとか乗り遅れまいとあがく一方、本音の自分が坊っちゃん風に言うならば「大嫌いだ」とかんしゃく起こしながら生きている部分があるからだ。これが時代を越えてもなお、人々に親しまれる理由だと思う。
そんな主人公だけど、作品の一人称の語りは極めて冷静かつ滑稽。長年読みつけている座右の書『吾輩は猫である』の猫の視点と語りにそっくりで、私にとってとても親しみやすい漱石がここにいる。と、つらつら書いてきたけれど、この作品はコメディーだね。だって、かなり笑えるもの。この勢いで自分の生き様も笑い飛ばせるならば、きっと幸せだろうな。
こちらでは初めてトラックバックさせて頂きました♪
高校時代 自主制作の映画で、「坊ちゃん」に出たことがあるのですよ。
確か 意地の悪い英語の先生役だったような記憶が・・。
バイトに忙しくて文化祭で見てないので、
どんな脚本だったのかも 知らないんです^^;)
さてさて一日も早く、読後の感想を書きたいのですが・・・
まだ本を手に入れられていなかったりします。
明日こそ 本屋へ行こう!
私も高校時代、文化祭の出し物のために映画を作りました。楽しかった。誰かと一緒に協力して何かを成し遂げるってとっても楽しいこと。今はしてるかな。したい、しよう、するぞ!
どっちかといえばベースボールという言葉を「野球」と名訳した正岡子規のほうが大切ではないかと・・・
そんなことを考えながら虎と同様に死のロードが終りました(^^;)
どろさーん!やっとこさ「池上のお会式」・・っていうとこまで読みましたよ~♪
旧・松山中学の生徒の小生意気さが 可笑しいですわ。またじーさんが入院&手術するんで、それまでには読み終えないと・・。
>紫蘭さん
大変大変ご無沙汰しております。
某会員制サイトでは お世話になりました。
先月、松山に住む息子んちへ行く途中、明石海峡大橋の上から紫蘭さんに手振ったんですけど・・
見えなかったですかぁ?
松山で納得行かないのは・・
「坊っちゃんスタジアム」、「ラフォーレ原宿 松山」、それに伊予鉄高島屋の上にある観覧車の「くるりん」。納得いかねー!
「伊予マンダリン パイレーツ」なんつう野球チームのネーミングはス・テ・キ!
坊っちゃんって最後はどうなるんですか??
忙しくて全然読む機械がないもんだから。。。
ぜひ教えてください!!