叔父のこと
父には年の離れた二人の弟がいた。父の気がかりは数十年も音信不通のすぐ下の弟だった。僕の記憶では小6の時、祖父の葬式の時に会って以来である。いや、僕ら兄弟が上京した時に相模原まで訪ねてきてくれたらしい。僕はその時不在で弟が喫茶店でナポリタンをご馳走になったということだった。叔父は若い時に北海道から上京、埼玉に住み化粧品会社に勤めているはずだった。
今から9年前の2012年、父に埼玉県下の市役所から連絡があった。叔父は市内で保護され、グループホーム(*1)に入居しているとのこと。入居後に役所が親族を調査したことで父に行き着いたらしい。父と40年ぶりの面会に行った。グループホームはほぼ新築で個室も与えられ完全介護で生活には何の心配も要らない様子だった。叔父は74歳とのことだった。家族と離別し転々とした後、脳梗塞も患ったようで認知症と判断されたようだった。父と下の弟の名前は覚えていたが遠来から兄弟の訪問に感激するわけでもなく淡々と質問だけに答えた。父はただ肩を叩き再会を喜んだ。
その2年後に父は85歳で霊山に旅立った。死期を覚悟していた父から病院で一つだけ頼まれたことがあった。「弟は身寄りのない可哀そうな奴だ。この先亡くなったら遺骨を引き取り家の墓に入れてやってくれないか。頼む。」と頭を下げた。もちろん快く引き受けた。その後、叔父のホームに数回面会に行ったが兄の様子を聞かれるような会話はなかった。
それから7年が経った今年2月末の父の命日に後見人のUさんから僕に連絡があった。叔父は急に体調が悪化し検査入院したがそのまま末期ガンと診断され入院したとのことだった。父とよく似た胆管癌との診断で本人も悟ったのか手術を辞退したということだったがその1週間後に亡くなった。
後見人の社労士さんと市役所福祉課と葬儀社の手厚い仕事で叔父の人生は滞りなく済んだ。連絡があったら僕は遺骨を受け取りに行くつもりでいたが外出自粛のこのご時世、葬儀社からの配慮でゆうパックで送骨(*2)されてきた。遺骨には最低限、死亡届と火葬許可証の事務所類が入っているのみだった。僕がパソコンで面会時の写真を探し、遺影と位牌を作った。
まだひとつ仕事が残っている。時期をみて父の待つ北海道の墓園に納骨に行くことだ。 兄弟、春の日差しでゆっくり雪を溶かしていくよう積もった話もあるだろうがその雪が解けてコロナも落ち着くまで待ってほしい。
それがこの3月の事だ。 並行して東日本震災から10年、随分被災地復興の報道が流れたが津波で流されまだ見つからない2500人余りの人がいる。突然目の前で家族を失った現実も受け入れられないまま、まだ捜索も続けられている。埼玉から人の手を経て大切に運ばれようとしている遺骨もあればまだまだ海底をさ迷っている人もいる。
(*1)グループホーム 認知症対応型共同生活介護の高齢者用専門施設 (*2)送骨(そうこつ) 「遺骨」を送る事で日本郵便のゆうパックにてのみ許可されている
(2021-07 某機関紙に掲載)
(2021年9月末 叔父の納骨が完了した)