仮題 ゴルフ場に犬を連れて行く

日常の取るに足りないこととか、、過去に某機関紙に投稿したエッセイを中心に掲載しています~~~◎

14 レジ袋の断り方

2021-11-09 | エッセイ

レジ袋の断り方

 コンビニやスーパーのレジで「袋つけますか?」と聞かれると皆さんはなんて答えていますか? 「あります」「持っています」(またはそれとなくマイバッグを先に出しておく)

僕は「不要です」という。しかし「はあ?」と一瞬キョトンとされるのでもう一度「不要です!」と大きく言う。 どうも「不要です」は聞き取りにくいらしい。 最近はカウンター間がビニールでガードされているし。 適切な返事は「ノーサンキュー」がいいと思うが英語はちょっとね。

最近若い人類は「大丈夫です」という言葉を使う。  コンビニのバイト君に聞いたらこれで通じるらしいがイエスなのかノーなのか分かりにくい。「大丈夫です。ご心配なく」 「大丈夫です。あります」なら丁寧で柔らかく解りやすい。

でも大丈夫!! ノーレジ袋が浸透する近未来、当たり前に聞かれなくなるから。 必要な時はこちらから「すみません、レジ袋売って下さい!」と言わなければいけなくなる。

(その後、不覚にもスーパーでマイバッグを忘れレジ袋を買ってしまった。 ああ、これでまた北極圏の氷が溶け、犬ゾリレースのコースも消えてしまう・・・)

(2021-1109 未発表)


13 ワクチン接種

2021-11-09 | エッセイ

ワクチン接種

一回目のワクチン接種を終えた。翌日は一日腕が痛かった。もしかしたら・・・という副反応を案じるワクチンは初めてである。今回、60~64歳が接種対象者だったので 僕は丁度真ん中に位置し二歳上の先輩から二歳年下の後輩までの年代ということになる。解りやすく言うとサザンオールスターズが二歳上の先輩、リアルタイムで彼らのヒット曲を聞き、浦安にディズニーランドがオープンした年に大学を卒業した。ワクチンはとにかく打って貰おう、でも特に急ぐわけでもなく時間のロスも少ない自宅から近い区民施設がいいと思ったら、予約ができたのは接種券が届いてから約三週間後であった。

接種会場に行った。同窓会のような会場。同年代のみなさん、あれからどんな時間を過ごしてきた?すでにリタイアして悠々退職金で暮らしている人、まだまだ現役で職場から抜け出してきた人、子育てを終え孫にジイジバアバと言わせて余裕な人、髪も真っ白のまま苦労の絶えない人、それぞれの人生を過ごしてきた同年代が同じ部屋に集まりワクチンを受け15分体内に浸透していく時間をやり過ごし、何事もなければまた元の人生に戻っていく。マスクをしているのは知られたくない部分の人生も隠しているようにも見えた。そして僕も・・・

(2021-08 機関紙に掲載)


12 箱根駅伝

2021-11-09 | エッセイ

箱根駅伝

 正月は「箱根駅伝」で新年が始まる。しかし来年は新型ウイルスの影響で「無観客開催」で沿道応援は控えてくださいとのことらしい。知人は昔、応援に行ってインフルエンザを貰ってきて以来行かなくなったとのこと。屋外であっても観戦して感染は起こりうるのだろう。

 箱根駅伝をよく見るようになったのはここ十五年位前からである。母校が常連で出ることもあって愛犬を連れて散歩がてら見に行く年もある。そして年に一度、大学に行かせてくれた親に感謝する新年でもある。応援と言っても「にわか箱根ファン」であるから復路十区の蒲田駅付近であり用賀からは環八を走って最短の見物地点である。OBとしては特に優勝までは望まない。毎年シード校として出場してくれたら充分なのである。

 その年のことだ・・・環八交差点前を往路十区のランナーが大声援の中、ピョコンと頭を下げて四位で通過した。優勝は多分無理だがシードは間違いないと安堵で帰途についた。帰宅してTVつけると母校は果たして・・・棄権していた。目の前を通過していった選手はその後、悲劇に見舞われたらしい。蒲田駅付近の線路の溝に脚を挟み怪我、その後も数キロ走ったが棄権したということだった。なんとも無念な・・・二百キロ以上走って最後に悲劇が待ち受けていたとは。今ではそこは高架になってこんな悪夢は起きない。

(2020-12 機関紙に掲載)


11 東京の灯よいつまでも

2021-11-09 | エッセイ

東京の灯よいつまでも

組合の諸先輩ならどなたでも知っておられると思います、1964年に新川二郎が歌いヒットした「東京の灯よ いつまでも」という歌のことです。

♪雨の外苑 夜霧の日比谷  今もこの目に やさしく浮かぶ 君はどうして いるだろか あゝ 東京の灯よ いつまでも~ と改めて聞くと素晴らしい詞ですね。

 僕は地方の出身なので東京の方に当時、どれだけこの歌が愛されたのか想像ができません。「雨の外苑」ってデートスポットだったのか?ラブラブな雰囲気があったのでしょうねえ。しかし、最近僕は幼少からこの歌詞を間違えて覚えていたことが最近判明しました。  ♪雨のらいでん 夜霧の小島~ と。 幼少時育った北海道ニセコの近くで採れる道内では有名なスイカが「らいでんスイカ」といいまして多分当時、大人が替え歌でふざけて歌っていたのでしょうか。これが最近、友人とのメールのやり取りの中で記憶違いだったことが判明したのです。日比谷だって知りません。ああ、記憶違いならいつまでも~♪  しかしそれにしても東京オリンピックといい新型ウイルスといい「ああ、東京の灯よ」というフレーズは古いのか新しいのか・・・なんだか心に沁みませんか?

(2020-09 機関紙に掲載)


10 叔父のこと

2021-11-09 | エッセイ

叔父のこと

 

 父には年の離れた二人の弟がいた。父の気がかりは数十年も音信不通のすぐ下の弟だった。僕の記憶では小6の時、祖父の葬式の時に会って以来である。いや、僕ら兄弟が上京した時に相模原まで訪ねてきてくれたらしい。僕はその時不在で弟が喫茶店でナポリタンをご馳走になったということだった。叔父は若い時に北海道から上京、埼玉に住み化粧品会社に勤めているはずだった。

 今から9年前の2012年、父に埼玉県下の市役所から連絡があった。叔父は市内で保護され、グループホーム(*1)に入居しているとのこと。入居後に役所が親族を調査したことで父に行き着いたらしい。父と40年ぶりの面会に行った。グループホームはほぼ新築で個室も与えられ完全介護で生活には何の心配も要らない様子だった。叔父は74歳とのことだった。家族と離別し転々とした後、脳梗塞も患ったようで認知症と判断されたようだった。父と下の弟の名前は覚えていたが遠来から兄弟の訪問に感激するわけでもなく淡々と質問だけに答えた。父はただ肩を叩き再会を喜んだ。

 その2年後に父は85歳で霊山に旅立った。死期を覚悟していた父から病院で一つだけ頼まれたことがあった。「弟は身寄りのない可哀そうな奴だ。この先亡くなったら遺骨を引き取り家の墓に入れてやってくれないか。頼む。」と頭を下げた。もちろん快く引き受けた。その後、叔父のホームに数回面会に行ったが兄の様子を聞かれるような会話はなかった。

 それから7年が経った今年2月末の父の命日に後見人のUさんから僕に連絡があった。叔父は急に体調が悪化し検査入院したがそのまま末期ガンと診断され入院したとのことだった。父とよく似た胆管癌との診断で本人も悟ったのか手術を辞退したということだったがその1週間後に亡くなった。

 後見人の社労士さんと市役所福祉課と葬儀社の手厚い仕事で叔父の人生は滞りなく済んだ。連絡があったら僕は遺骨を受け取りに行くつもりでいたが外出自粛のこのご時世、葬儀社からの配慮でゆうパックで送骨(*2)されてきた。遺骨には最低限、死亡届と火葬許可証の事務所類が入っているのみだった。僕がパソコンで面会時の写真を探し、遺影と位牌を作った。

まだひとつ仕事が残っている。時期をみて父の待つ北海道の墓園に納骨に行くことだ。 兄弟、春の日差しでゆっくり雪を溶かしていくよう積もった話もあるだろうがその雪が解けてコロナも落ち着くまで待ってほしい。

 それがこの3月の事だ。 並行して東日本震災から10年、随分被災地復興の報道が流れたが津波で流されまだ見つからない2500人余りの人がいる。突然目の前で家族を失った現実も受け入れられないまま、まだ捜索も続けられている。埼玉から人の手を経て大切に運ばれようとしている遺骨もあればまだまだ海底をさ迷っている人もいる。

 

(*1)グループホーム   認知症対応型共同生活介護の高齢者用専門施設 (*2)送骨(そうこつ) 「遺骨」を送る事で日本郵便のゆうパックにてのみ許可されている

 

(2021-07 某機関紙に掲載)

(2021年9月末 叔父の納骨が完了した)