朝、神棚と仏様に手を合わせる。
それは家にいる限り、毎日取りくむこと。
自分のその時にできるMaxの状態で。 必ず。
神棚は自分のテーマの発信。
より明確に、自分の中でも落とし込める。
仏壇は、ご先祖様おひとりおひとりへの”感謝”に取りくむ。
おひとりおひとり、観じてゆく。
それぞれの方との交流。
それぞれにそれをかんじ、味わってゆく、
それぞれに自分自身がかんじるところの感覚は違う。
,,,,,なんていうんだろう、、
自分自身の掘り下げる場所、の違う部分 を味わう。
結局は現実的にも、どういう角度のどういう領域のは幅からどんな方も受け入れてそこから学ばせていただく、
というところがベースで、
その角度や幅や領域の種類やその深さを自分の内側につくってゆく、
ということが必要、というかそこを学ばせていただいてるんだと思う。
生きる、ってことは。
毎日のご先祖様にそれぞれに真摯に向き合うこと、
それを通じて
私は、自分の内側にそのレールをつくらせていただいていってるんだな、
ってことも思う。
朝、そのレールを発見することも度々ある。
日中に、それは離れることもある。
だけれども、一旦自分の中で味わったレールは必ず自分の内側に存在してる。
砂埃を被って見えにくくなることはあるけれど、
一度味わった感覚は自分のものだから。
必ずそこに戻れる。
現実は、自分の肉体を通じ、目に見える現象と人と交流させていただく中で
より明確に受け止められ、それが真実となって腑に落ちる。
その体験もありがたい。
そうして、だんだんレールだったものが自分の血肉になって自らの状態と一体化するんだと思う。
大変なことはたくさんあるけれど、真実を見失わずにしっかりと歩んでゆこう、って観じる。