牧之瀬雅明/一陽来復・前向きな言葉を集めました。

未曾有の災禍で心身ともに疲弊しがち。前向きな言葉で人は生かされます。
少しでも暗い気持ちを明るくできれば本望です。

立春大吉はシンメトリー。2021年2月3日は立春の日

2023-03-13 13:50:23 | 日記

立春大吉はシンメトリー

 

春の縁起の良い言葉、立春大吉を紹介します。

 

立春とは、古来の季節を表す言葉「二十四節気」の最初の時季。

2021年では、2月3日が立春の日です。

この立春の早朝、禅寺では、魔除けや厄除けの意味を込めて『立春大吉』と書いた紙やお札を門に貼る習慣があるのです。

  • 魔除け
  • 厄除け
  • 幸運を呼び込む

四柱推命や風水等では、節分までは前年で立春をもって新しい年が始まると考えられています。

節分の豆撒きは大晦日にあたり、厄を祓って、翌日の立春から新しい年の幸運を呼び込むしきたりだったのです。

 

では何故禅寺で『立春大吉』と書いた紙や札が貼られるようになったのでしょうか。

 

禅寺でも曹洞宗のお寺でこの習慣を実践しているところが多く、お寺だけではなくそのお寺の檀家となっている家にも配られる『立春大吉』の札ですが、縦書きにした『立春大吉』という文字をよく見てみてください。

シンメトリー、左右対称になっているのにお気づきでしょうか?

この熟語は大変珍しくも、シンメトリーになっている言葉なのです。

 

つまり、和紙に墨字で「立春大吉」と書くと、表から見ても裏から見ても立春大吉と読めることが、こんなエピソードを生みました。

 

節分で祓われた鬼が、再び災厄を持ち込もうとその家の門をくぐりました。

その家の門には、立春大吉と書かれた紙が貼られてありました。

門をくぐった鬼がふと振り向くと、くぐったはずの門に再び立春大吉の文字が書かれてある紙が貼られてあるのが見えます。

鬼は「あれ?くぐったつもりがまだ門をくぐってなかったのか?」

鬼は勘違いして、門の外へと出ていってしまいました。

 

こうして禍を避けることが出来た。笑

 

なんて頭の悪い鬼・・・きっと、もっと深い話なのでしょうけど、表面的にはこうした話です。

しかし、なぜに鬼は振り返ったのか?疑問が残ります・・・

門の外に出て、また振り返れば、紙がそのままであるのに気づき、

再びうちに入れたのではないのか?

そして、また振り返り、また戻り、さらに、、、(この話は永遠にループ)

何だかよくわからない逸話ですが、昔の人が如何にして縁起を担ごうとしたのかがわかるエピソードということにしましょう。

 

このことから「立春大吉」は、鬼を払う力があると信じられているのです。

立春の日の太陽の光には、いつもの倍以上もパワーがあります。

 

そんな太陽の日差しに財布をかざすことで、1年金運が上昇すると言われております。

春に買う「春財布」は、(お金をパンパンに)張る財布とも言われ、縁起がいいことで知られています。

 

お財布に限らず立春に合わせて新しいものを使い始めることで良い運気を呼ぶことが出来るのでお薦めです。

 

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前向きになれる言葉/ ポール・ヴァレリーの詩の一節から

2023-03-13 13:47:14 | 日記

湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく

 

フランスの詩人、ポール・ヴァレリーの言葉です。

 

人生は時の湖に浮かぶボートのよう。

進むべき方向、未来には背を向けている自分がいる。

 

オールを漕ぐ自分が目にするには過ぎ去る風景のみ。

つまり過去ばかりだ

 

ボートに乗る人は、誰も未来を見ることは出来ない。

 

しかし、その過去もボートが進めば、遠ざかっていき、やがて見えなくなる

 

人は過去から学び、いまを生きると誰もが言います。

一方で、忘れることの大切さも説かれています。

 

あなたはどんな人生を歩んでいますか?

過去だけにこだわっていませんか?

 

過去は、その風景とともにやがて遠くに消え去っていくのでしょう

未来に背を向けているのだからこそ、今をしっかり見つめなければ。

人生を漕ぐボートの主は私しかいないのだから。

 

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大河の一滴を読み、自死を考える

2023-03-13 13:44:51 | 日記

この世は地獄であり、時として極楽でもある。

親鸞の「嘆異抄」の中に出てくる有名な言葉に「地獄は一定」があります。

一定は「いちじょう」と読み、「今ここにある確かなもの」の意味。

つまり、地獄は、私たちが生まれ育っている今、この瞬間、この場所だと言うのです

 

人によって、地獄の受け止め方も、地獄の様相も想像が異なるのでしょうが、たしかに、

地獄のような悲しみを味わう瞬間はあります。

愛する人と別れたとき、死別したとき、大きな困難に見舞われたとき、病に犯されたとき、

そして「心が萎えた」「折れた」とき。

私も自死へのあこがれを何度も強くしました。

一歩手前まで、後少しで体現する間近まで、自ら命を絶とうとした瞬間があります。

 

絶望を超えて、言えることは、「死は易く生は難し」三国志にも出てくる言葉。

最近読んだ本の中にも、こんな文章がありました。

「自殺、などというものも、特別に異常なことではなく、手をのばせばすぐとどくところにある世界なのではあるまいか。

ひょいと気軽に道路の白線をまたぐように、人は日常生活を投げだすこともありえないことではない。

ああ、もう面倒くさい、と、特別な理由もなく死に向かって歩みだすこともあるだろう。私たちはいつもすれすれのところできわどく生きているのだ。」

五木寛之先生の著作「大河の一滴」から抜粋です。

 

道路の白線をまたぐように、

自殺することは日常であり、手を伸ばせば届くのが死なのですね。

誰しも死と隣り合わせ、生と死のすれすれできわどく生きているというのです。

 

そかしこの「人はみな大河の一滴」と語られた著作には

死から脱出する極意も解説されています。

 

それは、「時間」

五木寛之先生は

「時の流れは、すべてを呑みこんで、けだるい日常生活のくり返しのなかへ運びさっていく。

待つしかない。

それが人生の知恵というものだろう」

と解決策を語りながら、

「それはわかっている。わかってはいるのだが、その重苦しい時間の経過をじっと耐えて仔つあいだが、なんともやりきれないのである。」とも語ります。

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禅語「逆風張帆(ぎゃくふうちょうはん)」 逆境に生きる

2023-02-06 13:40:27 | 日記

逆境の中での生き方を説いた禅語に「逆風張帆」がございます。

帆船が向かい風(逆風)にもかかわらず、敢えて帆を張る、との意味で、「逆境に耐え、前に突き進もうと努力することで活路が開ける」という、禅の教えです。

詳しい内容は  茶掛けの禅語~日本人のこころ~ を参照ください!


禅語「掬水月在手」  ミュージカル「ラ・マンチャの男」の主題曲のようです

2021-11-01 16:33:26 | 日記

禅語「掬水月在手」

 

「水を掬すれば月手に在り」と読み、茶道の掛軸としてよく掛けられる禅語です。

 

唐の時代、于良史作の漢詩『春山夜月』にあり、「掬水月在手 弄花満香衣」の語で禅の世界では使われます。

 

自分とかけ離れた、遠くにある美しいものとして月を見ているだけでは、そのものに気づくことは出来ない。水を掬うという働きかけがあって初めて、月は心の中に入って来て自分のものとして感じられる。

 

壁にぶつかって立ちすくなんでいたのでは状況は変わらない。

どうなるか分からないが行動を起こすことによって状況に変化が起こり、打開の道が開ける。

 

この禅語を読むと、自らの可能性を信じて、届くはずのない月に手を伸ばそうと歌う「インポッシブルドリーム」という曲が思い浮かばれます。

この曲は、ミュージカル「ラ・マンチャの男」の主題歌。

 

勝てるはずのない水車を敵に闘う男の話。恋人の女性は、酒場で働く娼婦ですが、ドン・キホーテにはレディに見えてしまう。

酒場で娼婦として働いていた女は、ドン・キホーテに淑女として、扱われたために、乙女心を宿すのですが、酒場の荒らくれ男たちに、元の娼婦のように扱われ、傷つくのです。「こんなに傷付くのなら娼婦のままで居させて欲しかった」と。

 

たとえ手の届かなくても、あの星に向かって、手を伸ばすのだ!そう歌って絶命するドン・キホーテの物語。

 

一つの動きが、人知の範囲を越えて動きを生む。

月を手に入れることは困難ですが、手に掬った水に映せば、不可能を可能にできる。

素敵な発想です。

昔は銅鏡に月を写し、鏡に生ずる水滴を集めて月の精を飲用するという行為があったそうです。宇宙の彼方の月と交わる方法だったのですね。