禅語「巌松無心風来吟」
なんの意識も、狙いも、欲望もない、無心こそ、自然の姿。
無策無心こそ、美しい人の姿形である、という意味の禅語です。
そのまま読めば「巌松無心風来たって吟ず」です。
巌谷の松に風が吹き来て、松籟の音が、時には激しく、時には優しく梢々と響く様を表現しています。
風が吹けば梢を鳴らします。
良い音を鳴らしてやろうと風が吹くわけでもなく
良い音を鳴らそうと松が思う訳でもありません。
自然法爾で思惑のない
無策無心だからこそ美しい。
松は歌う意志があるわけではなく、風も歌わせようと吹いているわけではありません。
その場の機縁に応じているだけ。ただ自然に鳴っているのです。
松には、歌おうとか人に褒められようとかという、意識も作為もなく、風が吹いてくれば自ずから、ただ鳴るだけ。
これをそのまま人に置き換えれば、自然の働き、無作無心こそが美しい人間性を現すという意味になるのでしょう。
しかし、自然のまま、ありのままで生きるのは難しいことです。
誰もが他人の目で評価される自分を測り、一喜一憂する世界で生きているのだから。
自然こそ、本来のあるべき姿、有り様なのは知っているのですが、そこが思うようにならないから、今日もこうして生きているのです。
「神様は越えられない壁を与えない」
日曜劇場ドラマ「JIN―仁」の中で、「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉が何度も出てきました。
多くの人は、この言葉を「あきらめなければ必ず目的を達成できる」という意味で解釈したことでしょうが、実は神様は「辛いこと悲しいこと」という意味では、人に「越えられない試練」を与えます。
人間は限界のある存在ですから、何もかもを自力で乗り越えられるはずがありません。
たとえば重い病気の人を「神様は乗り越えられない試練を与えないから必ず治るよ」と励ますのは、はたして優しいことなのでしょうか。
病気が治るか治らないかは神様の領域のことで、人には分からないからです。
もし、この励まされ方をした人の病気が治らなかったら、その人は「やっぱり神様はいない」とか「神様は嘘つきだ」とか思って、絶望してしまわないでしょうか。
「自分が悪いか、神様が自分を見捨ててしまったからだ」と自暴自棄になってしまいます。そう考えると、この励まし方は必ずしも優しくないということになります。
すべての苦しみや悲しみを自分の力で越えられるなら、人間は神様を必要としません。
『回向返照』(えこうへんしょう)という禅語があります。
人はその人生の中で
幾度となく壁にぶつかる事になります。
多くの人は壁にぶつかった時
どうするべきか?という答えを自分の外に求めます。
例えば、それは、賢人に助言を求めたり、占い師に相談してみたり。
しかし、人の助言は的確でないものも多くあります。
『回向返照』(えこうへんしょう)は外に答えを求めるのではなく、自分の内面を見つめなさいと教えています。
自分はどうしたいのか?
自分の内なる声に耳を傾ける
自分は自分をどう評価するのか?
他人から見た自分をよく見せることだけに執着していないか?
本来は、自分の人生なのだから、周りの目を気にしすぎることなく
もっと自由にワガママに生きてもいいのです。
誰のものでも無い、自分の人生なのですから
自分はどうしたいのか?
その声に素直に生きれば、人生はもっと素敵なものになります。
もちろん、回向返照の逆も、また有りです!
乗り越えられない壁にぶち当たったなら、ひとりで抱えずに、誰彼ともなく相談したり、話してみれば良いのです。
背負う荷物を軽くすることも時には必要です。
自分の内なる声が、きっと誰かに話して荷を軽くせよ!と仰ったのですから。
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