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牧之瀬雅明/一陽来復・前向きな言葉を集めました。

未曾有の災禍で心身ともに疲弊しがち。前向きな言葉で人は生かされます。
少しでも暗い気持ちを明るくできれば本望です。

フラストレーション・トレランスと「大河の一滴」

2021-04-21 10:11:55 | 日記
作家・五木寛之氏は「大河の一滴」のなかで、人は道路の白線をまたぐように、簡単に自死する、と告げています。それは、生命を決しておろそかにしてはならぬ、というほどの上から目線ではなく、「ネガティブに生きる生き方もあっていい」と人々にエールを送る言葉です。

命の儚さ。 つかの間の命、 死するものとしみじみと思う時、自分の生き方を本気で考えるものです。 命ある間に本当の生き方を見いだし、こんなに光り輝くすばらしい世界に生きているのだから、悔いのない人生を送りたいものだと、時には思うでしょうが、「そのうちに」で、日が暮れてしまう。

 人は死ぬものだということを、日常、全然忘れて暮らしているばかりか、死と隣り合わせであることさえ、さほど気にもかけずに日々を過ごしています。 しかし、まさに死に直面したならば、生きていることを強く実感するそうです。

新型コロナウイルスで、不安や葛藤を抱えながらも出社し仕事をしている人も多くいます。

正社員のテレワーク実施率が27.9%、7都道府県の正社員の出社率も4月10日時点で58.5%という調査結果も出ています。

今、職場では@コロナハラスメントという差別的な行動が問題になっています。

新型コロナは、様々な悪影響を多方面に展開しています。

こうしたストレスに耐えることが出来る人もいます。その力を欲求不満耐性(フラストレーション・トレランス)と言いますが、現在社会人は、今ネット上では様々な動画やメッセージが出され、この状態に耐える力を互いに補い合っているようです。

フラストレーション・トレランスを養うには、人の有り様について再考することも必要です。

地球上のすべての生きものは互いに命の繋がりがある、そして生きものの細胞には遺伝子情報・命の情報があり、生き死にしながら、 何万・何億年にわたり伝えられ、さまざまな生きものの命が続いてきた。三千万種の生きもの、そして今の貴方が、私があるこれは不思議なことです。

 人体は50~60兆個の細胞からなる細胞の集合体で、 一呼吸の間にも古い細胞が死に、新しい細胞が生まれているそうです。
 貴方や私というこの命、自分の意思や力で髪の毛一本、自由に生やすこともできない、腹が減る、年とともに老化する、生理現象のすべてが自分自身ではいかんともしがたい、呼吸だってほとんど意識せずにしている。けれども人は、自分の意思で力で、生きていると思っています。自分の意思で生きているというのは、 自分の思いこみであって、自然の摂理によって、生かされているといったほうが当を得ているでしょう。

人間は百歳まで生きられるような、 生理的体質に生まれてきているそうですが、ほとんどの人はそこまで生きられないで寿命が尽きてしまう、 なぜならば、ストレスにより自滅してしまうのです。

人は自然の摂理によって生かされていると気楽に受けとめればよいのに、欲張り根性、見栄っ張り根性があるから、いつも肩肘はって、 世間や他人に気を使いながら、 ストレス地獄の中で、あがき苦しんで生活しています。 

 お釈迦様は真砂なる砂の一つかみをもって示して曰く、この世に人 として生まれてきたこと、すなはち人身得ること難しと、そしてさ らに砂をまた一つまみして曰く、仏法にあうことはさらにまれなりと、この身今生において度せずんば、いずれのところにかこの身を度せん。 今、幸せな人生を送らなければ、生まれてきた甲斐がない、仏の御命を生かせと教えられました。

この世のすべてのものはみな変化しています、生きとし生けるものの変わり方はとくに早く、人の命など朝露の日に照らされて消えるが如くであります。
変わらぬと思い込んでいる古郷の山や川でさえ、悠久の時の流れのなかにある、まさにこの世は無常です。人はこの無常なることに気づくとき、はじめて命のはかないことを深く思い、かけがえのないこの命を、慈しむ心がうまれます。

「仏道を学ぶ人は、後日に修行しょう、などと考えてはいけません、 今日、この時をぼんやりと過ごさず、その日、その日、その時、 その時を、勤めなければならない」そう教えられました。

過ぎ去った日の自分を振り返ってみて、我が人生に悔いナシと、言い切れるでしょうか。

悩みの根源は煩悩です。煩悩は尽きぬから次々と生じてくる、生きているかぎり際限なしということでしょう。煩悩が尽きる時とはいかなる時かといえば、それは命つきる時です。
美味しいものをもっと食べたいという欲望がある、美味しいものを食べている一瞬は我を忘れて、舌鼓を打っているが、食べ終わるや、また別の心配ごとが頭をよぎる。そういうあさましい日々を私達は生きているのです。

時には日常の生活を省みましょう。普段の生活に原因があれば、その生活を根本から変えることです。仕事に原因があれば仕事の仕方を変えてみる、思いきって職場を変えることも必要です。これまでに過ごしてきた生き方を変えて、別のレールに乗り換えるのも一つの生き方です。
 これまでとちがった考え方、生き方をすれば楽に生きられるかもしれません。斉藤茂太さんの言葉を借りれば、「過去は安い本と同じ、読んだら捨てればいい」でしょう。失敗を恐れないことです、「何でもないところで転んだ人は、難所では転ばなくなるものさ」、「人生に失敗がないと、人生を失敗する」です。

 道元禅師は「菩提心」(理想的人間像である仏になろうとする心)を発すことを説かれました。瑩山禅師は「慈悲心」(仏の生き方を実践する心)を説かれました。ご家庭にお仏壇があれば、真っ直ぐに線香一本を立てて、その前に坐って手を合わせ祈ることによって、お仏壇がなければ暫し静かに端坐することによって、自らも仏(仏性のそなわったありのままの自分)になろうとする心がうまれます。よりよき生き方を実践しょうとする心も育まれるでしょう。

私たちは今ここにご先祖さまから命をいただいて生きています。この命ある喜びに目覚め、さまざまな命にささえられ、生かされている共生きを喜び、二度とない人生ですから、よりよく生きようと誓いたいものです。


50代こそ、なりたかった自分になれるチャンス

2021-04-15 10:57:56 | ポジティブ

今日は、Nianticの足立光代表のインタビュー記事を参考に、「50代は落ち着くな!」について考察します。

以下は、足立さん(どんな会社の代表かはググって下さい笑)の日経冊子のインタビュー記事から信条を自分なりに要約してみました。

 

40~50代の人たちが「歳を取ったら落ち着かなきゃ」と考えるのは間違いです。なぜなら「落ち着く」ことは【停滞】なのです。

 

人間は歳を取れば取るほど強い刺激を受けないと変わることができません。そのため、歳を重ねるほど新しいことに触れて、強い刺激をたくさん受けないと新しいことを考えられなくなります。50代になれば、ぜひ、外に出ていって新しいこと、流行っていることを体験してほしい。

子どもが独り立ちする40~50代は、もう1回、自分の殻を破るよいタイミングです。子どもの面倒をみなくてよくなり、経済的にも時間的にも余裕が生まれます。つまり、この時期こそ、20代のころになりたかった自分になれる大きなチャンスです

自分の殻を破って新しいことを始めるには二つしか方法はありません一つは時間の使い方を変えることです。殻を破れないとき、なかなか変化を起こせないとき、ほとんどの人は「時間がないから」と言います。それは当たり前で、何かをやめなければ、新しいことを行う時間は生まれません。新たに始めたいことを決めたら、それに費やす時間分、別のことに使う時間を減らさないと何もできない。

 もう一つは、リスクに対する不安を乗り越えることです。何かを変える・始めるのはリスクであり、リスクが恐いのは自然です。しかし、それは今持っているものをすべて守ろうとするからで、全部守る必要がないとわかればたいしたことはないんです。

 「流行っていること」とは、多数の人が心を動かされていることです。だからこそ、実際に、「流行っていること」を自分で見て体験して、なぜこれが多くの人の心を動かすのか一生懸命考え、それが自分の仕事に影響したらどうなるだろう、何ができるだろうと考えるようにする。これが刺激になります。 誰もがテレビを見たり、広告を見たりして、お店で何かを買う、サービスを受けるといった消費行動をしています。そのとき、自分はなぜそれを買ったのか、自分の仕事のイメージに当てはめてみてください。毎日、それを繰り返すだけでも、刺激を受け、今とは違った視点が出てくると思います。 

20代の頃を思い出してください。例えば、あの頃のAV,アダルトビデオ・・・モザイクはでかく、顔の半分も隠れるほどの大きさでしたが、なぜか、楽しかった。

村西とおる監督や豊田薫監督など、名前を聞いただけで、ワクワク・ゾクゾクしたものです。

いまや、ビデオテープは消え、DVDからネットで見る時代。モザイクもないものが氾濫していますが、モノ自体は刺激的ですが、見る側の刺激は追いついていますか?

もはや、感動も薄れ、刺激もないものです。加齢で欲が衰えているせいでしょうか?

いいえ、若い頃にあれほど疎ましかったモザイクが消えたのですから、念願の「ノーカット」が見えているのですよ。

それでも刺激が追いつかないのは、感動することを失ったのです。

人は感動が薄れるほど、老いていく動物です。

自ら、リスクをとり、時間を確保して、流行に刺激を求める姿勢を崩さず、行動するしかありません。

「落ち着いたら」イケないのです。

 


他是不吾は「而今」に通じます

2021-04-09 11:32:05 | 日記

こんにちは。

本日は「他是不吾」(たはこれわれにあらず)という禅語をご紹介します。

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「他是不吾」(たはこれわれにあらず)」の意味は
「よそはよそ、うちはうち」という自己中心的な意味ではありません。
他人と自分を比較するのではなく、まず、自分が行うことが大事だと悟ったお話です。

由来となったお話は、道元禅師が中国の宋に留学中の体験からです。
あるひとりの典座(てんぞ、禅のお寺で食事の世話をする炊事係)との会話が元になりました。

道元は宋の天童景徳寺に修行中、年老いた典座が外でキノコを干していたのをみて、その老体の典座にこういいました。
「そんなことはご自身でなさらずに、もっと若い者にやらせてはどうですか?」
道元は、親切心から言葉を典座にかけたのですが、老師は鋭い口調でこの禅語を道元に伝えました。
「他是不吾(他は是れ吾にあらず)」

他人にその仕事をさせたのでは、自分が仕事をしたことにならないということを道元に伝えたのです。極めて当たり前のように聞こえるでしょうが、禅宗では全ての仕事、作業がその人の修行なのです。

老師は単なる炊飯係を行っていたのではなく、自分がやるべき仕事を自らの修行として捉えていたのです。

さらに、道元禅師は「ではこんな暑い時ではなく、もう少し涼しい時に仕事をされては?」と言います。
体を気遣う親切心から出た言葉です。
これに対して老僧の答えは、「更待何時(更に何れの時をか待たん)」というものでした。

今やるべき事は今やらなければならない。人生の時間は刻一刻と過ぎ去っていくもの、繰り延べしている余裕はない。

この言葉を聞き、道元禅師は修行の何たるかを悟る事が出来たとのこと。

「他は是れ、吾にあらず」とは空間的位置にあります。
「更にいずれの時をか待たん」時間的位置にいます。


この空間と時間が交差した「今」が現実です。
道元禅師はこれを「而今(にこん)」と言いました。
而今は「今このときをただ懸命に生き抜く」と解釈されています。

過ぎ去った時間ばかりに心を寄せてはいけません。

誰しも過去を振り返ります。
過去の失敗を悔やんでばかりいたり、過去の苦しみから抜け出さずにいたり、あるいは、過去の栄光にばかりしがみついていたりします。
人は誰しもそのような心を持っているものです。

そう簡単に断ち切れるものではないかもしれませんが、大切なのは「今」というこの瞬間に生きること。
一生懸命に「今」を生きていく。
それが未来に繋がっていくのです。
過去の中に生きるのではなく、二度と来ない「今」を生き切ることが大切だと教えている言葉です。

最後までありがとうございました。