牧之瀬雅明/一陽来復・前向きな言葉を集めました。

未曾有の災禍で心身ともに疲弊しがち。前向きな言葉で人は生かされます。
少しでも暗い気持ちを明るくできれば本望です。

かなり難解な禅語「道得三十棒」。もはや「いじめの極意」

2021-10-25 13:51:33 | エッセイ

本日の禅語は「道得三十棒」。かなり難解な言葉で、理解に苦しむ方も多いかと思われますが心して聞いてください。

禅においては臨済の「喝」徳山の「棒」といわれるほどに、厳しい教え方があります。

 

臨済義玄禅師は修行者との禅問答において「一喝」を飛ばして導き、徳山宣鑑

 

(とくさんせんかん)和尚は来る修行者には棒を打ち据えて荒っぽく導いたといいます。

 

きちんと答ええても三十棒を食らわせ、答えがなければまた三十棒を打つ。

 

まるで「いじめ」を見るような、一般的感覚では理解できないことですが、

 

禅の世界では、「これが悟りだ、これが正解だ」と思ったら、それはもう「迷い以外の何物でもない」という考えがあります。

 

答えが何であろうと、明確な正解ではありえない。それを表現するため、徳山は弟子たちを殴ったのだとか。

 

ある夜の説法の時、徳山和尚は「今夜は何も言うまい、何か聞きたいことが事あれば言うがよい。三十棒を以って応えよう」と。その時一人の僧が問答をせんと進み出て礼拝したところ、徳山はすかさず一棒を食らわす。

 

僧はびっくり「和尚私はまだ何の問いかけもしてはおらぬのに、なぜ打つ

のか」と聞くと、徳山は「お前さんは何処の出身の人かな」、僧が「新羅から来ました」と答えると、徳山云く「さようか、汝がまだ新羅を出る船の船板を渡らぬ前に三十棒を食らわせておくべきだったよ」と言います。

 

僧はそこで始めて徳山の真意を解して悟った。禅問答では理屈はいらない、

 

きちんと応えても、また応え切れなければ勿論、棒が飛ぶ。なぜどうしてと

 

言う理解を超えた処の心証の見解(けんげ)でなければならないのだ。

 

右でもなければ左でもない、有でもなければ無でもない。

 

あらゆるものを否定し否定し否定し尽くした絶対的境涯を引き出すための「三十棒」なのです。

 

同じく禅語に「青天也須喫棒」があります。

これも解説書によれば「悟りの境地に安住してしまったら、それはもう迷い。そのような気持ちは棒で打ってしまえ」です。

 

私たちが生きている世界には答えなどない、といった考えが根底にあるのです。

 


禅語「巌松無心風来吟」と『回向返照』(えこうへんしょう)

2021-10-19 14:45:38 | ポジティブ

禅語「巌松無心風来吟」

 

なんの意識も、狙いも、欲望もない、無心こそ、自然の姿。

無策無心こそ、美しい人の姿形である、という意味の禅語です。

 

そのまま読めば「巌松無心風来たって吟ず」です。

 

巌谷の松に風が吹き来て、松籟の音が、時には激しく、時には優しく梢々と響く様を表現しています。

風が吹けば梢を鳴らします。

 

 良い音を鳴らしてやろうと風が吹くわけでもなく

 

 良い音を鳴らそうと松が思う訳でもありません。

 

 自然法爾で思惑のない

 

 無策無心だからこそ美しい。

 

松は歌う意志があるわけではなく、風も歌わせようと吹いているわけではありません。

その場の機縁に応じているだけ。ただ自然に鳴っているのです。

 

松には、歌おうとか人に褒められようとかという、意識も作為もなく、風が吹いてくれば自ずから、ただ鳴るだけ。

これをそのまま人に置き換えれば、自然の働き、無作無心こそが美しい人間性を現すという意味になるのでしょう。

 

しかし、自然のまま、ありのままで生きるのは難しいことです。

誰もが他人の目で評価される自分を測り、一喜一憂する世界で生きているのだから。

自然こそ、本来のあるべき姿、有り様なのは知っているのですが、そこが思うようにならないから、今日もこうして生きているのです。

 

「神様は越えられない壁を与えない」

 

日曜劇場ドラマ「JIN―仁」の中で、「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉が何度も出てきました。

 

多くの人は、この言葉を「あきらめなければ必ず目的を達成できる」という意味で解釈したことでしょうが、実は神様は「辛いこと悲しいこと」という意味では、人に「越えられない試練」を与えます。

 

人間は限界のある存在ですから、何もかもを自力で乗り越えられるはずがありません。

 

たとえば重い病気の人を「神様は乗り越えられない試練を与えないから必ず治るよ」と励ますのは、はたして優しいことなのでしょうか。

病気が治るか治らないかは神様の領域のことで、人には分からないからです。

もし、この励まされ方をした人の病気が治らなかったら、その人は「やっぱり神様はいない」とか「神様は嘘つきだ」とか思って、絶望してしまわないでしょうか。

 

 「自分が悪いか、神様が自分を見捨ててしまったからだ」と自暴自棄になってしまいます。そう考えると、この励まし方は必ずしも優しくないということになります。

 

 すべての苦しみや悲しみを自分の力で越えられるなら、人間は神様を必要としません。

 

『回向返照』(えこうへんしょう)という禅語があります。

 

 人はその人生の中で

幾度となく壁にぶつかる事になります。

 

多くの人は壁にぶつかった時

どうするべきか?という答えを自分の外に求めます。

 

例えば、それは、賢人に助言を求めたり、占い師に相談してみたり。

しかし、人の助言は的確でないものも多くあります。

 

『回向返照』(えこうへんしょう)は外に答えを求めるのではなく、自分の内面を見つめなさいと教えています。

 

自分はどうしたいのか?

自分の内なる声に耳を傾ける

 

自分は自分をどう評価するのか?

他人から見た自分をよく見せることだけに執着していないか?

 

本来は、自分の人生なのだから、周りの目を気にしすぎることなく

 

もっと自由にワガママに生きてもいいのです。

 

誰のものでも無い、自分の人生なのですから

 

自分はどうしたいのか?

 

その声に素直に生きれば、人生はもっと素敵なものになります。

 

もちろん、回向返照の逆も、また有りです!

 

乗り越えられない壁にぶち当たったなら、ひとりで抱えずに、誰彼ともなく相談したり、話してみれば良いのです。

背負う荷物を軽くすることも時には必要です。

 

自分の内なる声が、きっと誰かに話して荷を軽くせよ!と仰ったのですから。


自己を学ぶとは、自己を○○○こと。すなわち禅語「只管打坐」

2021-10-04 13:54:12 | 日記

10月4日の相場と禅語「しかん-たざ 只管打坐」

日経株価は連日下げを記録し、私の保有株もこれまで最長だった6日連読下落の記録を破り、7日目に突入しました。

わずか一週間で4000円も下落した持ち株もあります。

 

相場を学ぶ時に、必要な格言は様々ありますが、本日は禅語「只管打坐」について考えます。

 

曹洞宗の開祖、道元の著書『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』には、「仏道を学ぶとは、自己を学ぶことです。自己を学ぶとは、自己を○○○ことです」と書かれています。

○○○に入る言葉はわかりますか?

 

「只管打坐」の説明として書かれたものにこうあります。

『毎朝仏壇を前にして、体を真っ直ぐにして、線香を真っ直ぐに立てて、自分の鼻筋と線香とご本尊さまの鼻筋が真っ直ぐになるように坐る。そして、真っ直ぐになった心と体とを活かすこと。毎朝3分でも5分でもよい、仏壇に向かって実行してください。』と永平寺の宮崎禅師さまが、平易におっしゃっています。坐禅とは、「只管打坐(しかんたざ)」であります。「ただ ひたすらに坐る」という意味です。「それに成りきること」であり、坐禅は、坐ることに成りきることであります。体と心が一つになるということです』。

 

背筋を伸ばし体が真っ直ぐになれば、心が真っ直ぐになる。心が真っ直ぐになれば、思うことが真っ直ぐになる。「形は心をつくる」ということです。

 

「只管打坐」とは辞典によると、余念を交えず、ただひたすら座禅することとあります。▽仏教、特に禅宗の語。「只管」はひたすら、ただ一筋に一つのことに専念すること。「打坐」は座ること、座禅をすること。「打」は助字。「只」は「祇」とも書く。

 

「只管打坐」は曹洞宗の道元が説いた、ただひたすら座り続ける坐禅修行のやり方です。「心身脱落」の境地を目指します。

「心身脱落」の境地こそが、○○○に入る言葉です。

アメリカから広まった「マインドフルネス瞑想」は、仏教の思想を取り入れたもので、そのやり方は坐禅と同じであるといえます。「只管打坐」との大きな違いは、マインドフルネスには宗教性がないことです。

 

もう一つの違いとして、只管打坐はその目的に実利を求めませんが、マインドフルネス瞑想には実利を得たいという目的があるということです。例えば、瞑想をしてリフレッシュしたい、心の安定を得たい、それによって心身ともに健康になりたい、といった目的が存在します。

 

言い換えれば、マインドフルネス瞑想とは、仏教の思想を身心の健康に役立てるための手法としてとりいれたものだといえます。

 

どちらも「よりよく生きるためのトレーニング」です。

集中して瞑想や坐禅を行うことで雑念が取り除かれ、心が落ち着いたり、リラックスするという、得られる効果については同様です。

さらに瞑想や坐禅は、脳が活性化し、創造性が発揮されるともいわれています。どちらもよりよく生きるための、トレーニングであるといえるでしょう。

 

つまり、マインドフルネス瞑想も究極は、◯◯◯

 

自分を『忘れる』ことが重要なのでしょう。