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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

ねじ曲げられた桜

2020年08月22日 18時09分59秒 | 読書・戦争兵器
「ああア、だまされちゃった。特操なんて名ばかり良くてさ。今度生れる時はアメリカへ生れるぞ」

「こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」というのは、アメリカ兵からはこのように見られているのだろうとの自嘲である

軍歌は子供たちの間でも非常に流行り続け、1935年にはグリコが、キャラメルの箱に入っているグリコ切手を15枚集めて送れば、軍歌集がただで貰えると宣伝したほどである。第二次世界大戦中も、政府は尋常小学校を軍国主義イデオロギーを宣伝するために利用した

日本で最初の長編アニメ「桃太郎の海鷹」は、真珠湾攻撃で成功した海軍の活躍を記念するために、海軍省が製作を依頼したものである。

真珠湾攻撃を童話の「桃太郎」に模した。
即ち真珠湾攻撃は、大望を抱いた少年の鬼退治の話とされたのである。

「かわいらしい」アニメ役者のせいで大人気を博した
「神風」という言葉は、1274年と1281年、日本征服のために来襲した蒙古人の船を転覆させ、奇跡的に日本を救ったという台風を指す。

皮肉にも「回天」とは、
「天に還る」を語源とする。

隊員の無残な死を、仏教的に美化したものである。

「神風」という言葉は、1274年と1281年、日本征服のために来襲した蒙古人の船を転覆させ、奇跡的に日本を救ったという台風を指す。

皮肉にも「回天」とは、
「天に還る」を語源とする。

隊員の無残な死を、仏教的に美化したものである。

政府は、この徴収すなわち召集を「学徒出陣」と名付けた。「出征」でなく、古風な「出陣」という言葉を意識的に選ぶことで、学生たちを往時の「武士」として描こうとしたのである。

東條政権は、選抜された最高の知力を持つ東京帝国大学の学生たちを犠牲とすることに吝かでなかったのみならず・・・

・・・朝鮮人、中国人、台湾人を兵員として確保するために法律を改正した。当時、日本帝国の人口の30%は朝鮮人、中国人であったが、彼らの志願を強制した。

軍国イデオロギーは、明治の初期以来、散りゆく桜の隠喩を通して兵士の犠牲を強調した

日本を表す名称・象徴

大和
敷島
朝日
旭光
旭日
富岳

天皇への兵士の犠牲を表す言葉


山桜
初桜
桜花
天桜
葉桜
雷桜
皇桜
左近
靖国


ここで特に言及しておきたいのは、10月25日に出撃した最初の特攻部隊に大西が与えた名称

敷島・大和・朝日・山桜

は、すべて本居宣長の歌から採られてものだった。

大西は、この象徴としての桜を根本的に変容させ、散りゆく花びらという特攻隊の隠喩にしたわけである

ここで特に言及しておきたいのは、10月25日に出撃した最初の特攻部隊に大西が与えた名称

敷島・大和・朝日・山桜

は、すべて本居宣長の歌から採られてものだった。

大西は、この象徴としての桜を根本的に変容させ、散りゆく花びらという特攻隊の隠喩にしたわけである

学徒兵が最初に教えられたのは、生きて捕虜にならないために、自らの銃で自殺する方法だった。

これには、足の爪先を使って引き金を引く練習が含まれており、彼らは、即死できるよう、顎下の決まった場所を正確に狙うよう教えられた。

学徒兵たちは、しばしば叩き上げの職業軍人の格好の体罰の的とされた。彼らは大学どころか高等学校にさえ在籍することの叶わなかった自らと比較し、学生たちを、勉学に専心することの許される特権階級の出身者として見ていたのも一つの理由である
出撃前夜の隊員たちの様子

「冷酒の席の酒盛りは、一気飲み!!ガブ飲み!!

遂に修羅場と化して、電灯は刀で叩き落され、窓硝子は両手で持ち上げられた椅子で次々に破られ。
ある者は怒号、ある者は泣き喚き、今宵限りの命・・・
遺書を書く者、狂い踊りしながら花瓶を叩き壊す者・・

「爆弾運搬動物」特攻隊員

息子が特攻任務に配属されたことを知って首を吊った母親もいたし、また息子の遺髪と爪の入った箱を受け取ったのち入水した母親もいたのである。

これは、家に届けられるべき遺骨が残らないことを見越し、慣習として前もって「形見」が送り届けられたからであった。

1997年
靖国神社
「英霊に捧げられた花嫁人形」

「今度逢う時は靖国神社に来てください」

「今日ここに日本一美しい花嫁の桜子さんを貴男に捧げます」

花嫁人形は、東南アジアに広く伝わる「死霊結婚」の習慣から理解できる。日本では、東北地方にみられ、未婚のまま死去した若者のため、花嫁人形、若い女性の写真の付いた絵馬などの品を捧げるものである。

生き残りたちが毎年靖国神社に集うのは、死んだ戦友たちが「靖国神社で待っている」と言い遺して征ったためなのである。

神社と境内の桜とは、亡き戦友への気持ちを表現しうる空間なのである。

軍隊においては、検閲は「鋏」と呼ばれていた。

「特攻は犬死にだとわかっていたから、指名されたときはガクッときた。教育参考館に飾るから、と遺書を書かせられた。しかし、本音を書くことができないから、何をいってもウソになった。本心を吐露することはタブーだった」
実際、「模範的」遺書は、あとに続く者たちの見本として、基地の壁に展示され、今でも靖国神社に展示されている。

若者たちが実際に何を考え、感じていたかを読み取ることはできるはずがなく、

遺骨の代わりに箱に入っていたのは
「遺骨」と書かれた半紙の一片であった。

「京都駅でも、その次の駅でも遺骨が凱旋していた。
箱の白さが痛々しい」

木箱を包む「白い布」
大抵の場合、これからの箱に入っていたのは、
「遺骨」と書いた白い紙切れのみであった。
モンテーニュの言葉

「死そのものは何でもない、
ただ死に対する恐怖が死を重大視させるのだ」







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