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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

峠越え  伊東 潤/著

2020年11月29日 08時39分00秒 | 読書・文学


2014年 第20回 中山義秀文学賞受賞

幼き頃、師より凡庸の烙印を押された男は、いかにして天下を覆すことになったのか? 過酷な乱世を勝ち抜いた天下人、徳川家康の「生きる力」に迫る本格歴史長編。『新刊展望』連載に加筆修正して単行本化。

~~第一章 持たざる者~~

虚け(うつけ)
剃り上げられたばかりの青々とした月代(さかやき)

信長でも秀吉でもなく、家康こそが天下人たりえた理由とは―。幼き頃、師より凡庸の烙印を押された男は、いかにして戦国の世を生き抜き、のちに天下を覆すことになったのか?本能寺の変、信長死す―。家康の人生最悪の危機は、最大の転機でもあった。大胆不敵の大仕掛け、当代無双の本格歴史長編


「よかった。右府様(織田信長)は、ことのほか鶴肉を好むからな」
家康は心底、ほっとした。以前、信長を饗応した折、どうしても入手できなかった鶴肉の代わりに雉肉を使ったため、とたんに機嫌が悪くなった。
むろん信長は、鶴肉を好むというより、己に対する対応を見ているのだ。

すでに14になる竹千代も、そうした風雨考法を、雪斎からしつこいくらい教えられていた。

「こうなってみると、人の人生とは何と空(むな)しいものか。懸命に勉学に励み、気絶するほどの修行を積んでも、この肉体が潰(つい)えてしまえば、それですべては雲散霧消(うんさんむしょう)する」

「三河殿、人とは首になってしまうと、つまらぬものだな」
「あの首が、かつては笑い、飯を食らい、そして兵を死地に追い込んだのだ。しかし首となってしまえば、笑いもせぬし、飯も食えぬ。ましてや声の一つも発せられぬのだ」

一貫文を現在価値の10万円とすれば、四千貫文は4億円に相当し、とても尾張半国の大名が出せる額ではない。その父・信秀の遺産を、そっくりそのまま引き継いだのが信長である。

しかしどの道、生き残るのが難しいとしたら、信長は乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負に懸けてくるに違いない。

尾張の虚けは、出陣した後、馬上でうたた寝するという。
信長も桶狭間の追憶に浸っているようである。
「あの時、そなたが義元の居場所を伝えて来ねば、わしの首が、この勝頼の首のように義元の前に置かれたはずだ」

人は、今ある己の有様が当然のことだと思うて生きておる。ところが、何か一つ判断を違(たが)えておれば、よきにつけ悪しきにつけ、全く別の生涯が開けておったやもしれぬのだ。

家康が恥ずかしそうに身を縮めたので、信長は呵呵大笑(かかたいしょう)した。
信長は風流を好んだが、歌は詠まない。それは歌才がないというより、文学といったものに興味も関心もないからである。

狂っておる。
頭蓋骨に注がれた酒を飲まされたときである。

「それでは、わしは先にこの地を去る。当然、追っ手が掛かろう。それを防いでもらわねばならぬ」
「誰が殿軍を担うか」
真っ先に手を挙げたのは羽柴秀吉、続いて明智光秀である。
成り上がってきた二人は、さらなる出頭のために危険を冒さねばならない。つまり、己の命を賭場に張らねばならない立場にある。佐久間や柴田とは違うのだ。
そのとき、「徳川殿」・・・ 家康の肝が「ぴくん」と音を立てた。
手伝い戦に来た者が、退(の)き陣の殿軍を担わされるなど前代未聞である。しかも、朝倉勢が本気で追撃してくれば、敦賀(つるが)平野に押し込まれて殲滅される公算が高い。

「手伝い戦でいらした三河殿に殿軍を担わせては、織田家の名折れ。殿は、それがし・池田勝正にも残れと命じられました。」すなわち信長は、本気で家康に殿軍を担わせるつもりはなく、家康を試したのだ。
やはり、かの男は侮れぬ。
絶体絶命の危機にあっても、家康を試すことを忘れない信長の余裕を、家康は畏怖した。

六角勢と衝突した佐久間・柴田両勢は、鎧袖一触(がいしゅういっしょく)で六角勢を撃破、780もの首級を上げ、大勝利を収める。

「お引き受けいたしました」
肺腑を搾り出すような声で、家康が言った。
「朝倉勢は手伝い戦で、ここまで来ております。それに対して浅井勢は、ここで負ければ滅亡は必然。兵の末端に至るまで必死で戦うはず」
信長はそれを知っていたがゆえに、家康を朝倉勢にぶつけ、必死の浅井勢を己が引き受けたのだ。
姉川の戦いは、織田・徳川軍の圧勝で終わった。
この後、本願寺と手を組んだ浅井・朝倉軍はしぶとく抵抗するが、1573年8月、朝倉義景を追撃して越前に乱入した信長は、朝倉家を滅ぼすと、返す刀で小谷城を囲み、9月、浅井長政を自刃に追い込んだ。
これにより浅井・朝倉両家は滅び、越前・近江両国が信長のものとなった。
そして1574年正月朔日、信長と家康は、薄濃(はくだみ)とされた浅井長政と朝倉義景の頭蓋骨で酒を飲むことになる。

「薄濃で飲んだ酒は、実にうまかった。のう、三河殿」

「唐国の学者の話では、明るく輝く星の命は短い。
しかし鈍く輝く星は、いつまでも天空にとどまっているという。」
「目立たぬよう、鈍く輝いていろ」と付け加えた。
むろん家康は、輝きたくとも輝けない己をよく知っている。

~~第二章  獅子身中(しししんちゅう)の虫~~

安土城の精緻な構造物は、神が挑むがごとく蒼天に屹立していた。
その極彩色に彩られた壮麗な天主は、想像をはるかに超えていた。

家康は相手の真意を確かめるまで、自らを韜晦(とうかい)する癖がある。
物事は一定ではなく、常に流動的である。その動きに惑わされ、決定したことを次々と覆していると、結局、後手に回る。
「竹千代、戦とは、泰然自若として動かぬ者が、常に主導権を握るのだ」

「信長は、信玄が浜松の城攻めで時を費やすはずがないと、初めから踏んでいたのです。しかしそうなれば、われらは城に籠ると詠んだ。われらが城に籠れば、信玄は無傷で岐阜に至る。それで、どうすればわれらが信玄と戦うか考えたわけです」

「ここで少しでも退き陣(のきじん)のそぶりを見せれば、武田勢は、先を争って押し寄せてくるでしょうな」
確かに、敵が退勢に陥ったときの甲州兵は、無類の強さを発揮する。
信玄は、功を挙げた者に手づかみで甲州金を分け与えるからである。
兵は、換金性の高い金を最も欲する。すぐに酒や女にありつけるからである。
信玄は金を四斗樽に入れて、戦場に運んできていた。
むろんそれは、金が豊富に産出する甲斐と駿河を押さえているからこそ、できることである。

「山が動きました!」
遂に信玄が動いた。
信玄は、確実に勝利が得られるとき以外に本陣を前進させない。

1573年4月12日、信玄は波乱に満ちた53年の生涯を閉じる。
信玄の死は固く秘匿されたが、翌月には信長や家康の知るところとなった。
7月、信長は、信玄に呼応して宇治槙島城で挙兵した将軍義昭を降伏させ、室町幕府に引導を渡すと、8月、浅井・朝倉両氏を滅亡に追い込んだ。
9月には、家康も負けじと、武田家のものとなっていた奥三河の要塞・長篠城を奪還した。しかしこれが、信玄の跡を継いだ勝頼の闘志に火をつけることになる。
その猛威に驚いた家康は城に籠り、己の領国を蹂躙されるに任せるほかなかった。
信玄の養ってきた兵たちは、強気な勝頼の采配によって、以前にも増して、水を得た魚のように暴れ回っていた。

「しかし、いくら利が大きくとも、穴山玄蕃のように武田家の血濃い者が寝返るだろうか」

悪鬼羅刹(あっきらせつ)かと見まがうばかりの赤備(あかそなえ)の軍団である。

==第三章 まな板の鯉==

家康の趣味は鷹狩りしかない。
鷹狩りだけが、この世の憂(う)さを晴らしてくれるからである。

信長の狙いが信康の命であると覚った家康は、遂に信康に自害を命じた。

惟任(これとう)とは明智光秀のことである。
「例えば、先日の右府様の惟任殿に対する仕打ちを見れば・・・」
能興行に信長は饗応役の光秀を伴っていた。
ところがこの時、昼餉に出された鯛の刺身が、わずかな異臭を発していた。
家康はこうしたことに敏感であり、刺身の大半を残した。
しかし信長は、家康の様子を見逃さなかった。
「申し訳ありませぬ。この鯛は急ぎ取り寄せたもので・・・」
光秀に罵声を浴びせつつ、2度3度と光秀を蹴り上げる。
庭に蹴り落とされようとする寸前、家康が光秀に覆いかぶさり、許しを請うた。
さすがの信長も、家康ごと蹴り落とすわけにはいかない。
その場で饗応役を解任させた光秀は、翌日のは、羽柴秀吉の後詰を命じられ、慌しく安土から去っていった。
重臣を下郎のように扱っては、織田家自体の威信も揺らぐ。

布団をかぶっても睡魔は訪れず、家康は輾転反側(てんてんはんそく)しながら朝を迎えた。
眉目清秀(びもくせいしゅう)

頭の皮一枚で思いついたような策を提案してきた。
京に至るまでの道筋には、ひそかに服部半蔵ら伊賀忍びを先行させ・・・

ちなみに信長は、法華宗寺院を宿館としてよく利用した。
後に大事件の舞台となる本能寺や妙覚寺も法華宗である。

というのも天文法華の乱以降、敵対宗派の攻撃を過度に恐れた法華宗では、寺院の四周に堀をうがち、築地塀を高くし、城郭並みの構えを有していたからである。

信長のお気に入りの一人となった今井宗久は、信長から様々な特権を与えられて莫大な富を築いていた。

~~第四章 窮鼠(きゅうそ)の賭け~~

紋所(もんどころ)

最後まで抵抗した南伊賀衆は、信長の容赦ない撫で斬りに遭い、女子供まで殺された。








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