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国内の岩壁初登攀からヨーロッパアルプス北壁の冬季登攀、ヒマラヤ難峰の無酸素登頂、そして時を経てヒマラヤの8000メートル峰へ―「激しい夢」を抱いて登山界を牽引し続けた天性のリーダー・小西政継が、58歳の誕生日を目前にしてマナスルに登頂後、消息を絶った。
プロローグ 小西がなぜ?
第1章 異端と正統
第2章 栄光のためではなく
第3章 恐怖の報酬
第4章 若き勇者たち
第5章 氷壁の七人
第6章 未知との遭遇
第7章 無酸素登頂への闘い
第8章 家族の肖像
第9章 今ひとたびの夢
第10章 マナスルより永遠に
エピローグ 長き不在のあとに
「8,000m峰と自己責任」という一文で、小西政継は明確に断言していた。
【天候が急変し悪天候につかまりました
⇒疲れました
⇒酸素が切れました
⇒凍死しました】
というのは、何回も繰りかえされている初歩的な遭難のパターンである。
登る山を総合的に計算しつくし、最悪の場面まで読みこなしたうえで、自分の力;体力・技術・経験などをハカリにかけて、勝ち負けを判断する能力に欠けていたということである。
「頂上に立ったからといって成功と喜ぶには早い。
登頂して、無事に下山して初めて成功なんだよ。
下山途中に遭難したら、それは敗北だ」
山学同士会は「遭難同士会」と誹謗されるほど、山での遭難が多い山岳集団だった。
ジャヌー北壁第一次登頂者の小川信之、穂高の横尾谷で病死
「名登山家たちの死は、これまで全く予測のつかないような易しい場所や山で発生する場合が多い」
英国が生んだ最強の男;ドゥガール
ナンガ・パルバット単独登頂のヘルマン・ブール
リオネル・テレイ
甲斐駒ケ岳赤石沢奥壁は、技術的な困難さで知られ、穂高、剱岳をしのぐものがある。
黒戸尾根から七丈小屋
「寺岡と藤井と野口の3人が赤石沢の奥壁で氷のブロックに叩きおとされました。
500m下まで落ちたので、たぶん絶望的でしょう」
3人の遺体は大滝上部で発見された。
後立山・不帰東面Ⅲ峰B尾根
北穂高岳滝谷グレポン
カンチェンジュンガの未踏の北壁から
「無酸素」「少数精鋭による全員登頂」という壮大苛酷な夢
ラサのコンガ空港
「ヤク・ルート」
ヤクも登れるくらい容易なエベレストのルート
松本竜雄が、日本で最初に埋め込みボルトを使用して、未踏の谷川岳一ノ倉沢コップ状岩壁正面を初登攀したのが1958年6月である。
ラインホルト・マスナーはナンガ・パルバット;8125mの難壁、標高差4500mにも及ぶ前人未踏のルパール壁に「無酸素」で挑戦した。ルパール壁はナンガ・パルバットにのこされた最後の壁である。
凍傷は氷点下何十度という酷寒からくるのはもちろんだが、希薄な酸素の世界では、まず薄い酸素が心臓と脳に送られ、どうしても末梢神経が犠牲になる。血液の循環がものすごく悪くなって、凍傷にかかってしまうのである。
未踏のチョゴリ北稜;K2に「無酸素全員登頂」
サウス・コルは「天のにおいと死のにおいが入り交じっている」と言われる。
8500m以上は「死の地帯」だ。
Mr.エヴェレストの加藤保男は、8600mという高度は「空気の層に違いがある」と言った。
結婚してしまうと、「釣った魚に餌はやらない」状態になってしまう
小西は「釣った魚にだけ餌をやる」タイプの人間
植村直己;南極大陸の単独横断、最高峰ビンソン・マシフの登頂の夢
南極大陸3000kmを犬ゾリで単独横断
植村は勇躍、憧れていた南極の地に降り立った。
青天の霹靂のような戦争の勃発が、植村の夢を簡単に引き裂いた。
4月2日、アルゼンチン軍が、英領フォークランド諸島を占領。
それを機にフォークランド戦争に発展、南極のアルゼンチン基地内が騒然となり、もはや極東の一日本人の冒険のための協力などは、たちまちのうちに消し飛び、夢は四散した。
1984年11月、「銀座デパート戦争始まる」