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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

ヒトラーの娘たち ホロコーストに加担したドイツ女性

2021年04月05日 13時57分03秒 | 読書・文学


ナチズムが生んだ一般のドイツ女性たちは‘血塗られた地’で何を目撃し、何を行ったのか。レイシズム、国家主義のさいはてに待つ、知られざる歴史の闇に迫る。全米図書賞ノンフィクション部門最終候補選出作(2013年

強制収容所女性看守の平均年齢は26歳で、最も若いのは15歳であった。
身の毛もよだつような仕事に志願した者たちは、これらの大量殺害の現場を雇用とチャンスをもたらしてくれる場と考えていた。
立派な制服、高い給料、そして権力を振るうことに魅力を感じたのだ。

「民族」のイデオロギーは女性に関して独自の美意識を持っていた。
このイデオロギーによれば、美とは化粧品ではなく、健康的な食生活とスポーツに対する熱意の賜物であった。ドイツ人の少女と女性は、マニキュアを塗ったり、口紅を付けたり、髪を染めたり、痩せすぎてはいけなかった。
ナチ指導者らは1920年代の化粧品ブームをすべてユダヤ人の商売とし、ドイツ的な女性らしさを貶め、女性を売春婦に変え、人種的衰退をもたらしたとして非難した。

■1935年8月のベルリンでのナチ党大会。
横断幕には「ユダヤ人は我々の不幸である」
「女たちよ、少女たちよ、ユダヤ人は諸君の破滅の源である」と書かれている。

女性は保育教育で、「劣等人種」の顔立ちと頭蓋のおぞましい特徴を見分ける「人種衛生」の指導を受けた。中学校では、生徒は皆詳細な家系図を作成し、これは2つの目的を果たした。
子供は自分のドイツ人としての血統を自覚するようになり、教師は誰がアーリア系で誰がそうでないのかを知ることができた。

ユダヤ人から奪った物を大量殺人現場の近くで山分けして消費することは、祝勝の名目で行われた。
ユダヤ人は初心者向けの標的となり、経験が浅く、大抵は酔っ払っていた射撃手にも即座に満足のいく結果をもたらした。

「行動部隊」として知られる移動部隊のエリート殺人部隊は、1941年末までにソ連のユダヤ人50万人を射殺した。その残虐な仕事ぶりに関する記録は非常に広範囲に存在し、中心となっていた隊員たちにニュルンベルクで軍事裁判を実施した。
1941年晩夏から秋にかけ、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ベラルーシでユダヤ人、共産主義者、精神疾患者の総計13万5,567名が射殺された、と彼女は行動部隊Aの前哨基地からベルリンに送付される143頁もの報告書をタイプし、コピーし、公印を押す作業を行った。

ヒムラーは、女性が大量殺戮計画の実行に不可欠な労働力であることを理解していた。
収容所看守として、また子供を産む花嫁として親衛隊とかかわる以外にも、女性は行政官の特別補佐隊としてエリートから成るテロ組織への参加を許されたのである。
1942年初頭、ヒムラーは親衛隊に女性による報告・事務部門、親衛隊女性部隊の設立を命じた。女性の意欲を高めるために、ヒムラーは学校を訪問し、親衛隊での事務仕事は恥ずかしいものではなく、逆に結婚の可能性を高めると再度保証した。

ワルシャワでは秘密警察の秘書たちが、ポーランド人政治犯に対する報復行為に関する書類を取り扱っていた。ある事務員はこう説明している。
「当時廊下には、たくさんのファイルがありました。100ほどの。その中から50人だけ射殺されることになると、ファイルを選ぶのは女性職員に任されました。ときには課長が、
『こいつとあいつは殺せ。あのくそヤローは消しちまえ』と言いました。

戻ってきた男性職員は皆お祭り気分で、身震いするほど残酷な大量射殺の様子をしばしば事細かに語った。殺人は大きな厚い板を墓穴に渡し、「飛び込み台」のように使って行われた。
遠方に立つ狙撃兵に撃たれると穴の中へと落ちていった。

ユダヤ人を乗せた列車がミンクスに到着すると、ゲシュタポ事務所の職員たちは移送者から盗み取った食料ーーそれは「ユダヤのソーセージ」と呼ばれていた。
「人間というゴミ」以外は、何も無駄にしてはならないとされた。

最初にナチによる大量殺人を実行した女性は強制収容所の看守ではなく、看護師である。
すべての女性職業人の中で、看護師は最も死に近い存在だった。
政権中枢で計画された大量殺人が開始されたのはアウシュヴィッツ・ビルケナウのガス室でもなければ、ウクライナの大量射殺現場でもなく、国内の病院である。
当初の方法は、睡眠薬、皮下注射、餓死で、最初の犠牲者は子供であった。
戦時中、看護師は何千人もの奇形児と障害のある若者に、バルビツール酸系睡眠薬の過剰投与とモルヒネの致死注射を行い、食事と水を断った。

優生学という言葉は、アメリカの権威でハーバード大学出身のチャールズ・ダベンポートによる1910年の著書、『優生学ーーより良い交配による人類改良学』の副題に定義されている。

人類劣化の問題に対する唯一の完全な「最終的」決着は、「欠陥のある」ドイツ人をはじめとする汚染源を除去することであった。
これらの専門家は最終的に20万人を超える人々を殺害した。
400箇所の医療施設が、人種審査と選別、人体実験、大量の不妊手術、餓死、そして毒薬の投与による殺人作戦の拠点となった。

1942年9月16日、アルトファーターはゲットーに入り、2人の子供に近づいた。
6歳の子供とよちよち歩きの幼児だ。
彼女はおやつを与えるかのようなしぐさをして、2人を手招きした。
よちよち歩きの子供がやってくる。すると彼女は子供を両腕で抱えあげ、抱きしめた。あまりの力に子供は叫んで身をよじった。彼女は子供の両脚をつかみ、逆さまに吊るして、ゲットーの壁にその頭を叩きつけた。まるで小さな絨毯の埃を叩き出すかのように。そして息絶えた子供を父親の足元に放り投げた。

アルトファーターが得意としたのは、「卑劣な習癖」と言わしめた子供殺しだった。
彼女はしばしば飴で子供を誘い出し、子供がやってきて口を開けると、脇に携えていた拳銃で撃ったという。

最も効果的な殺人方法が、うなじに一発ぶち込むことだった。
サディスティックな見世物のほうが彼らの得意とするところで。人前での殴打、絞首刑、性器の切断がなされ、子供の手足はもぎ取られた。

アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館の研究者らは、近年、ナチ支配下のヨーロッパに4万以上の収容所があった事実を突き止めている。

ナチの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは、ドイツ人女性を残忍にレイプする「アジアの群れ」という赤軍兵士のイメージで、ドイツ人大衆の決意および恐怖を高めようとした。
今やその恐ろしいイメージが現実となったのだ。
集団レイプは、混乱と形勢の逆転という屈辱の中、重い足取りで西へと向かった数百万人のドイツ人避難者の報告により裏付けられた。
レイプされた女性の数はーー10万人から200万人と推定される。

■レイプの推定件数が定かでないのは、1つには、繰り返しレイプされた犠牲者がいたこと、またその後殺されたり、自殺した者が多かったこと;ベルリンだけで推定1万人が死亡;が理由として挙げられる。フランス軍は、ドイツ南西部で集団レイプを実行した。アメリカ人兵士らによる事例もある。頻度は少ないが、イギリス軍でも認められた。

制服を着ていた女性はすべて連合軍の捜査網に捕えられ、収容所に入れられた。
ソ連軍に占領されていた地域では、ドイツ人女性の扱いが苛酷で、2万人が東部で逮捕されロシア内陸部に移送された。1950年代後半の両国間の雪解けに伴う恩赦でドイツに帰国した者のなかに、彼女たちの姿はなかった。捕われの身のまま処刑されたり、亡くなったりしたのである。

ソ連は帝国最大の女性専用収容所ーーラーヴェンスブリュックーーの女性看守らを告発し、イギリス軍は「ベルゲン・ベルゼンの野獣」を追った。
その1人、22歳のイルマ・グレーゼも軍事裁判で死刑を執行されている。

ナチの殺人者を動物と比較するとき、著名なホロコースト史家イェフーダ・バウアーのコメントが思いだされる。ナチスに「獣のような」とか「野獣性」という言葉を適用することは、「動物の世界に対する侮辱である。なぜなら、動物はそのようなことをしない。殺人者の行動はあまりにも人間的であり、非人間的ではなかった」

■殺人のプロセスに直接手を下してドイツ人とオーストリア人加害者は20万から25万人である。
このうち10万人が、実際に裁かれ、何らかの判決を言い渡された。






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