昨年3月11日の震災・津波・原発事故からまもなく一年が経とうとしている。だが、差し迫った問題でありながら、現在も結論や合意形成の糸口さえみつからない問題も多い。定期点検のために止まっていた原発の再稼働を容認するか否か、放射線濃度の高い地域を除染して住民の帰住を促すか別の土地への移住を進めるか(子どもたちを疎開させるか除染をして地元で育てるか)、放射線を含んだ瓦礫を地方に分散して処理すべきか否か・・・住民や国民の間で意見が対立し、分断や差別意識さえも生み出している状況をどうやって打開すればいいのか。
2月18日の朝日新聞朝刊「私の視点」にスタンフォード大学ジェームズ・S・フィシュキン(James S. Fishkin)さんの「討論型世論調査 エネルギー選択で活用を」という記事が出ていた。「討論型世論調査」とは、世論調査の回答者のなかから希望者に討論会に参加してもらって、討論前と後の世論の変化を見るものだ。参加者は、バランスのとれた資料を読み、相反する意見をもつ専門家の意見を聞いて、議論を重ねたうえで自分の結論をだす。フィシュキンさんは、今、日本の政治家が本質的な議論を避けて結論を出せないでいるエネルギー選択の問題について討論型世論調査を行ってはどうかと提言しておられる。
3.11以降、原発やTPPといった意見の分かれる課題を取り上げて市民の議論をとおして政治家の意思決定に影響を与えようという機運は高まっている。中沢新一さんや宮台真司さんたちが先日立ち上げた政策提言ネットワーク「グリーン・アクティブ」もまた、「対話の会議」(コンセンサス会議)をその主要なツールとして用いるという。(その第一回目の会議が「除染」をテーマに2月14日に行われ、その様子がYou-Tubeで配信された。その報告は「グリーン・アクティブ」のサイトに掲載されている。)
こうしたなか、昨年4月に翻訳出版されたフィシュキンさんの近著『人々の声が響き合うとき 熟議空間と民主主義』(早川書房、2011)が、こうした討論型世論調査や熟議型民主主義について考えるうえで参考になる。
人々の声が響き合うとき : 熟議空間と民主主義 | |
クリエーター情報なし | |
早川書房 |
どこかバフチンがドストエフスキーの作品をとおして論じた「多声性」(『ドストエフスキーの詩学』ちくま学芸文庫、1995)を彷彿とさせるタイトルだが、原題は”When the People Speak: Deliberative Democracy and Public Consultation”(2009)である。原著の「発言する(speak)」が「声を響き合わせる」と翻訳されているところに注目したい。民主主義社会では、一人一人が自ら発言し自分の考えを主張することが大切なことはいうまでもない。しかし、それが単なる自己主張に終わり、説得力やディベートの優劣によって決着をつけるだけでは現実の問題は解決しない。問題について参加者一人一人が学び(知識を得て)、公平に考えて話し合った結果が政策に反映されることが大切である。
はたして、このような熟議型の民主主義(Deliberative Democracy)は日本の社会に根づくのだろうか。これまで、西欧流の個が確立していない日本人は自分を表現することが不得手だといわれ、私を含めて多くの人が自らの政治的立場を主張することを躊躇してきた。大勢に順応し、影響力の強い声にしたがい、強いリーダーシップに任せることで、波風を立てないで生きていく習慣を私たちが身につけてしまったとすれば、たしかに主体的関与の姿勢が欠如している。だが、その一方で、他者との関係性のなかで自らの意見を形成していく姿勢は熟議に適しているといえないだろうか。他者の声に耳を傾け、他者の考えに照らして自分の考えを吟味する。その意味で、「発言する」ことと「声を響き合わせる」こととは一体の関係にある。
熟議民主主義の素地を固める教育の在り方も問われなくてはならない。先般、立教大学で行われた情報リテラシーの連続講座に講師としてお招きした小玉重夫さんによれば、イギリスの学校で2002年からカリキュラムに取り入れられているシティズンシップ教育では、「政治的リテラシー」を身につけさせるために論争的な課題(issue)について子どもたちが争点を明確にして活発な議論を行うことが求められている。教師は専門家の科学的知見をかみ砕いて子どもたちに伝え、議論を促すコーディネーターとしての役割を担う。その際、議論が偏らないように、必要に応じて適宜、次のような形で介入することが奨励されているという。
・中立的なチェアマンとしてふるまう
・少数派の立場を擁護することでバランスをとる
・教師自身の意見を明確に述べる
(12月25日のブログ記事を参照)
賛否両論があって結論を見いだせない問題や立場によって利害が異なる問題をどうやって解決するか、その際に自分がどのような立場に立つか。それは政治問題にかぎらず、私たちの人生や日常生活のさまざまな局面で私たちが迫られるチャレンジであり、そういった課題に立ち向かう術(すべ)を子どもたちが身につけることは学校教育の中核をなすべきであろう。私はこれまで、「読書」「思考」「探究」といった活動の在り方について、個人の内面に焦点をあてた従来のアプローチを、対話や多声性(=拡張性)を基盤として他者との関係性のなかでとらえなおす必要があると考えてきたが、この点については、これからも折にふれて発言していきたい。
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