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公開連続講座「情報を評価し、判断する力をいかに育むか」に寄せて

2011年08月28日 | 「学び」を考える

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 924日からはじまる公開連続講座「情報を評価し、判断する力をいかに育むか」の正式な募集要項が整った。主催者である立教大学の中村百合子さんのブログでも各回の講師紹介が出そろった。この講座にかける中村さんの想いと精力的な仕事ぶりには頭が下がるばかりだが、企画の一端を担った私もまた、これから5か月間にわたって、自分なりの観点から連続講座を追っていくことにしたい。今日の記事は、そのプロローグということになるだろう。

「災害報道とリテラシーについてのシンポジウムが必要な気がしています」という中村さんのメールが私の携帯に届いたのは、5月15日、私が主宰している学校図書館自主講座(神戸)の第6回目「思考力の育成に学校図書館はどう関わるか」に向かおうとしていたときだった。絶妙のタイミングだった。3月11日から2か月を経て自分の裡でほぼ極限にまで高まっていた問題意識を解放する場が与えられたと直感して、即座に「ぜひ、やりましょう」という返事を返した。

じつは、その一か月前(4月10日)の自主講座で、私は「3.11から何を学ぶか」というテーマで2つの話をしていた。ひとつは「今、世の中で起こっていることから何を学ぶか」というトピックで、今、この時にこそ、学校図書館は、震災、津波、原発事故から学ぶ授業の提案や情報提供を積極的に行う必要があるのではないか、ということをいくつかの事例を紹介しながら語った。もう少し時間をおいて事態の成り行きを見通し、たしかな資料が整ってから授業を組み立てないと、かえって子どもたちを誤った方向に導き、混乱させることになりはしないかという懸念もあるだろう。だが、その一方で、この混沌の中でこそ、子どもたちに学ばせるべき大切なことがあるのではないか。混沌のなかで正気に生きる知恵と言えばいいだろうか。阪神淡路大震災を経験した私は、災害時におけるメディアと情報のリテラシーを防災教育の一環として位置づけられないかと考えている。(震災後、兵庫県立舞子高校に開設された「環境防災科」には「防災情報」という科目が設けられているが、私の念頭にあるのは情報ネットワークにかぎらず、あらゆるメディアと情報にかかわるリテラシーである。)それが、もうひとつのトピック「災害時(危機対応)に求められるメディアと情報のリテラシー」につながっている。メディアや情報をクリティカルに読み解く力は、大人も子どももふくめて私たちみんなが身につけておいて、いざという時に発揮されてこそ意味がある。しかも、それは、情報が錯綜し、何が正しいか分からないときにこそ求められるのだ。学校や図書館は、そういったリアルな問題を自らのプログラムに組み入れることができるだろうか。まず問われるのは、教師や図書館担当者自身の情報にたいする評価力と判断力、そして現実の問題に立ち向かう姿勢であろう。それは、また同時に、家庭や地域社会との連携とも関連して、これからの教育再生の在り方にかかわる問題でもある。このような私の問題意識は、タイムリーな話題として、その場では共有できたようだが、その後、具体的な形で展開する気配もなく、5月15日の公開講座でも、3.11との関連づけが行われないまま、思考力の育成をめぐって熱い議論が交わされていた。東日本で起きた地震、津波、原発事故については、私たちみんなが心を痛め、重大な関心を寄せているにもかかわらず、それが私たちの日々の生活や仕事のありようと結びつかないのはどうしてだろう?

 

被災地から「遠く離れた」神戸にいる私たちにできることは何か? だれもが自らにそう問いかけていた。募金、物資、ボランティア・・・被災者への直接的な支援とケアが喫緊の課題であることは言うまでもない。だが、私にとって、それは「遠く離れた被災者」の問題ではない。単に心情的にではなく、今も何らかの形で震災や原発事故の影響を受けつづけているという、具体的な事実として私たちもまた被災者であると言えないだろうか。福島原発の事故についていえば、過去40年間にわたって原発に異議を唱えてきた人たちに共感しながらも、エネルギーの問題に向き合って自らのライフスタイルを見直すことを怠っていたという意味での責任も私にはある。そういう認識に立っている私にとって、3.11に端を発するあらゆる状況は、他人事ではなく、なんとかしなくてはならない自分自身の問題である。

 

5月15日から3カ月間、私にとっては行き場を失った感情のエネルギーに突き動かされてはじまったこの企画だが、プログラムの構成や講師の選択などをめぐって、おもにメールを通じて話し合っているうちに、リテラシーにたいする私の考えが少しずつ熟成し、深まっていくのを感じている。そのおかげで、最終的なプログラムもプログラムも、一時のセンセーショナルな問題提起ではなく、かなり普遍的と思える問題に絞り込んで、しっかりした講師陣を整えることができたのではないかと自負している。

 

「対話の時間」が大切なのだと、つくづく思う。他者をとおして自分を見直し、考えを深め、自らの変容を受け入れる姿勢がなければ対話は成立しない。対話は、まず、自分の生息域から出て相手の話を聞くことからはじまる。相手を説得したり、自分の世界に引き込もうという意図をもたずに、ひたすら相手のことばを聞き、自分を語る。私は、中村さんの、この姿勢にずいぶん助けられた。 

プロローグにしては、ずいぶん長くなったので、対話の効用については、日をあらためて記すことにする。 以下は、連続講座に参加する人にも、しない人にも、ぜひ読んで考えていただきたい、中村さんのブログ記事である。

東京から飛んで学校図書館を考える

 

2011-08-21

連続公開講座を企画したのは・・

 

2011-08-22

情報の評価・判断においてできあいのものに倚りかからずに。

 

2011-08-22

情報リテラシーを実践する。

 2011-08-25

リテラシー史研究から図書館のほうを見る。

 

2011-08-26

シティズンシップと図書館の深~いはずの関係。

 

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