教育基本法の与党「改正」案が衆議院で単独採決され、参議院での審議が始まった。戦後60年を経て現代の社会情勢とそぐわないところがある、解釈の分かれるあいまいなところもある、だから改正する必要があるのだという。
現行の教育基本法は、戦前の反省をふまえて、わが国の教育が目指すべき理念とともに、そのために必要な条件整備の方針を示したものであり、そこには、「個人の価値」を尊ぶことや「自他の敬愛と協力」など、基本的人権を尊重しようとする民主主義の基本が貫かれている。それを、なぜ、どのように変えようというのか。その是非についての議論はつくされたという。しかし、おもに国会や専門家レベルで行なわれてきたこれまでの議論は、残念ながら一般の国民や多くの教員にとって決して大きな関心事であったとはいえない。政府の「改正」案は、現代の教育課題をどのようにとらえているのか、このまま政府案が成立し、具体的化されることによって家庭や学校はどう変わっていくのか。そういったことについて国民の多くが具体的にイメージできないまま制定されるのでは禍根を残す。緊急性のない法案を、国民の理解を十分に得られないまま、無理やり採決してしまおうとしていることに、何らかの「意図」を感じる。国会での採決を急ぐより、できるだけ多くの人が現行の教育基本法と「改正」案を読み比べ、市民レベルの議論を盛り上げることが大切だと思う。いじめや学力低下論、教育委員会のあり方などをめぐって教育に対する関心が高まっている今こそ、国民全体を巻き込んだ議論を尽くす好機ではないか。
1つの争点は、基本法でどこまで具体的な教育内容を規定するかということであろう。教育内容の決定権は、政府や官庁にあるのではなく、主権者である国民にある。理念宣言法といわれてきた基本法に具体的な内容を盛り込むことは、改正ではなく、法そのものの性格を変えることにはならないか。とりわけ「公共の精神」や「国と郷土を愛する態度」などは法律で義務付けるものではなく、一人ひとりの心のなかに自然に芽生えてくるのを待つべきものであろう。そのために教育が重要な役割を担うことはいうまでもない。だが、物事の価値判断を子どもに押し付け、誘導することは避けたい。みんなが同じ考えや価値観を持つことを是とし、異なる考えや価値観を持つ者を排除しようというのでは、いじめの構造と同じではないか。子どもたちが自らの課題を認識し、それを解決するために、異なる他者とかかわり合い、さまざまな考えや価値を尊重しながら、自分で考えて行動する力をつけることが現代社会の教育には求められている。そのためには、学校や家庭や地域に活力を取り戻し、子どもたちがイキイキと生活し、学ぶ環境を作ることが大切だ。成果主義、習熟度別学習、学校選択などの導入によって競争をあおり「出来ない子」を切り捨てるのではなく、「自他の敬愛と協力」を通して知識を自ら探求する自律的な教育実践をこそ奨励すべきであろう。教師自身も、また、上意下達の構造のなかで上の顔色を見ることにやっきになっていては、子どもたちと向き合い、現実を見つめながら、一人ひとりの子どもを育てていくことはできない。教育公務員である前に一個の人間として、思想・信条の自由など、その基本的人権を守られるべきである。
このような教育の再生を実現するために教育行政のあり方はきわめて重要だ。「改正」案を具体化すれば、教育の中央集権化を促進することになるのか、それとも地方分権を実現できるのか。「教育振興基本計画」も、国が教育振興計画を立てて予算措置を講じることは必要だが、教育の地方分権がしっかりとできていないと具体的な教育内容にまで踏み込んだ官僚支配を強めることになりかねない。
現行基本法は、11条しかない短い法律だが、学校教育だけでなく、家庭教育、社会教育も含めた国民全体に影響が及ぶ重要な法律である。賛成・反対を言う前に、まず現行法案をよく読んで、なぜ政府案のように変えなければならないかを徹底的に議論しなければならない。それには、教育基本法だけでなく、全国一斉学力テストの実施や教育再生会議の動向、そのほか「教育改革」の名のもとに進められているさまざまな施策も合わせて考え、これから我が国の教育が依拠すべき基本理念を確立する必要があるのではないか。
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