ことばと学びと学校図書館etc.をめぐる足立正治の気まぐれなブログ

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クリティカル・シンキングへの道(5)ある高校生の小論文に学ぶ記号と「現実」の乖離とその克服

2007年03月01日 | 「学び」を考える

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 いつかこのブログでも紹介したことのある「ダブルバインド」や「学習Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」などで知られるグレゴリー・ベイトソンは、かつて友人から「君は考えすぎだよ。考えるのを止めてこれを見たまえ。」といって、美しくみずみずしいバラのつぼみを手渡されたとき、「それにどれだけの考えが入っているか考えてみたまえ。」と切り返したという逸話を、娘のMary Catherine Batesonが”Angels Fear”(Macmillan, 1987)のなかで紹介している。私たちが人間の所業を超えた自然の一部だと思っている一輪のバラの「美しさ」にも、じつは人間が長い年月をかけて育んできた社会文化的な概念が映しこまれている。私たちは、あるがままのバラを見ているのではなく、自分たちの頭のなかにある学習された「美しさ」を重ね合わせて見ているのである。そう説明されてもにわかに納得しがたいかもしれない。まして、そう認識することが、私たちの生き方や社会のありようとどのようにかかわっているのかを、具体的かつ説得力をもって説明するのは容易なことではない。

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 先日、知人から、ある小論文のコピーをいただいた。我が家からさほど離れていない小さな町の高校2年生が小泉信三賞全国高校生小論文コンテストで受賞(次席)したというので、『三田評論』1月号に掲載されたその作品をコピーしてくださったのだ。テーマは「ホンモノとニセモノ」。学校の同好会活動で環境問題に取り組む高校生たちの前に立ちはだかった「ホンモノ」という厄介な概念をとりあげて、記号化された社会文化的概念が自然についての私たちの認識と行動にどのような影響を及ぼしているかを分析し、「ホンモノ」という記号を超えて多様性に満ちた自然を回復していく可能性(見通し)を考察している。

  あたりまえの自然をどこまで回復できるのかを試そうと活動を始めた高校生たちは、周りから寄せられた言葉の端々に含まれる「ホンモノ」ということばに悩まされる。「ホンモノ」とは何かを問わざるをえなくなった高校生は、「ホンモノ志向」の人たちが求めているのは、あるがままの対象そのものではなくて、対象の一部分を特化し、他と区別する付加価値であることに思いいたる。こうして記号化された「ホンモノ」は、本来の性質や機能を失って暴走をはじめる。テレビアニメで見たアライグマの「可愛さ」に惹かれて「ホンモノ」を飼いはじめた人たちは、そのあるがままの生態に手を焼き、アニメにならって山の奥深くに放してやるが、その行為が、結局はその土地の生態系を崩すことになる。最近では、対戦型の昆虫カードゲームに乗じて販売された「ホンモノ」の昆虫についても同様のことが起こっているという。そうなると子どもたちがバーチャルな世界で遊んでくれていたほうが、かえって自然が守られるようにも思える。各地で行われているホタルの復活や鯉の放流など、記号化された「ホンモノ」にこだわって失われかけた自然を復活させようとする取り組みは、「ありのまますべてを受け入れ対応を考えようとする意識を鈍らせる。」それを克服するには、対象の一面的な価値のみを見るのではなく、それが生み出す「予測もつかぬ未来を含めてそのものの全体を受け入れる覚悟が必要」であると知る。現在、兵庫県ではコウノトリがあたりまえに生きていける生態系を復活させる取り組みが、人工的、擬似的な手段をも総動員して進められている。そこに生息する何者も「ホンモノ」として珍重されないあたりまえの世界を取り戻し、人間をふくむ生物の多様性を取り戻そうとするこの試みに高校生は期待を寄せている。

  ここに紹介した一高校生の考察が、期せずして一般意味論の「地図と現地の三原則」に対応していることに注目したい。

 (1)「地図は現地ではない」

 (2)「地図は現地のすべてを表すわけではない」

 (3)「地図についての地図をつくることができる」

  「ホンモノ」という記号(地図)は、対象のありのままの姿(現地)を示しているわけではない(1)。現地の一面だけをとらえて(2)その部分を増幅させていく(3)記号化を通しては、生々しい現地は見えてこないし、そのような記号を用いて現地を制御できなくなる。そのことに気づいて、多様性に満ちた豊かな現地を見つめなおし、不断に地図を作り直していく行為によって、記号の呪縛から解放されて、記号を超えるきっかけになるだろう。

  「人は同じ川に二度と足をつけることはできない」(ヘラクレイトス)

 川の水ばかりではなく、そこに足を浸している私たち自身も常に変わり続けている。だからこそ常に新たな出会いの感受性と意味づけ作用が必要なのである。

  ところで、ここに紹介した小論文が展開している思考過程は、とても高校生のものとは思えない、かといって並の大人にもとうてい書けそうもない秀作である。いま、マスコミなどで過剰なほど増幅されて喧伝されている子どもたちの「学力低下」の一方で、このような優れた思考力を持った子どもたちが育っていることにも目を向けたい。小泉信三賞にかぎらず「調べる学習」や「科学研究」などさまざまなコンテストが盛んに行なわれ、思考力や探究型の学びを導入した学校で従来型の入試にも強い生徒が育っていることに注目が集まっている。このことは教育の格差、学力の格差がますます広がりつつあることを物語っている。コンテストや進学率の高い学校でトップクラスの優劣を競うだけでなく、その実践と成果は、わが国の学校教育全体、なかでも底辺とされている層のレベルアップのために生かしてほしいものだ。そのためにも「考える」ことの本質をふまえた教育実践が各地の学校で展開されることを望みたい。

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