おじさん山伏です

修験道の修行から見た心の散歩です。
アイヌのアシリ・レラさんからの命名です。
「キムン・マタギ」になりました。

もう一つ、この素晴らしい「気」の世界から(清水義久さん)

2016-12-23 | 神道

昨日の続きです。

簡単なことですが、真実を語っていると思います。

すこしづつ始めています。

 人はどうして自分で自分を変えることができないのか。

病気で困っていたり、借金したり、虐待を受けていたり、

どうにもならないほど苦しんでいる自分がいる。

何にも感謝できない自分がいる。

しかし、信じられないほど困った状態でも、

ここからやり直せば変わっていけるという境界線があるはずだ。

 

 それには、人間にとっていちばん古い情報を

利用すればいいのではないか。

個人の主観とか文化のノイズとか、信念の共同主観みたいなものや、

幻想のニュアンス――そんなものが限りなく取り除かれた情報こそが

自分自身をケアできるのではないか

 

つまり、根源的なものとして何をトリガーにしたらいいのか、どれが効くのか。

 

 愛とかセックスの感覚は、日高敏隆先生の動物行勤学によると、

人間の本能のプログラムに入っていない。

性衝動はあっても、人間には本能としての性行動はないという

(『動物にとって社会とはなにか』日高敏隆著 講談社学術文庫)。

だから、これは使えない。

 

使えるのは人間が持つ生物としての系統発生のいちばん古い感覚、

生きていくための本能だ。

つまり、生物の基本情報にある幸せの原点というのは、

食欲が満たされたという満腹感、それと、心地良い居住空間にいることだ。

だから、言葉でそういったエネルギーを誘導してみればいいのではないか。

 

そんなことを考え、「ごほんの祈り」ができた。

 

「この糧は私を守り、育てます。いただきます。

「幸せいっぱい、腹いっぱい。ごちそうさま」

  

この順序が、「腹いっぱ、幸せいっぱい」だと、二つが別々になり、

トリガーにはならない。

 

「お腹はいっぱいですか」

 「はい、お腹はいっぱいです、イエス!」

 「そして幸せいっぱい?」

 「え-、そうではないんだけど……」

 

 ということもある。

でも、「幸せいっぱい、腹いぱい」というと、

「ああ、お腹はいっぱいで、このことが幸せなのね」と、

意識が勝手に自分が幸せな状況であると認識してしまう。

だから、ごはんを食べた後にこれをいう。

気のエネルギーを使えなくても、ごはんを食べる前と後にこの二つの言葉を言うと、

エネルギーを最大限にチャー・ジすることができる。

少なくとも自分のエネルギーを整えることが可能になる。

  

そして、もうひとつのトリガーの言葉、それはお風呂に入ったときだ。

 

「あったか-い、しあわせ~」

 湯船に肩まで浸かって、のんびりとした気分で言う。

これは、本当にトリガーになる。

お風呂に浸かれば、気持ち良く、誰もが幸せに思えるひとときだ。

だから言葉に出して言う、「あったか-い、しあわせ~」と。

 

「ありがとう」という言葉が世間でよく使われる。

でも結局のところ、本当に困っている人は、「ありがとう」とか、

「ありがとうございます」という言葉を、なかなか素直に言えない。

例えば白分かガンなどの不治の病になっていて

助からないかもしれないと思っているとき、

「ありがとう」と素直に口から出せるだろうか。

普通の状態なら正しいと思えることでも、

困っているときにはそれが正しいとはかぎらない。

「ありがとう」と素直に言える人は、最初からいい人だし、それほど困っていないのだ。

 

「ごはんの祈り」なら、誰でもが普通に言えると思う。ごはんを食べて満腹感

 の自我をトリガーにして、強制的に、かつゆったりと、自然治癒力を発生させる。

 「あったか~い、しあわせ~」も、お風呂の中だったら素直に言えるだろう。

 

数年前ですが、畑田天眞如さんにまつわり付いていたときに

天眞如さんが、だれにでも「ありがとう」と声を掛けます。

その響きには、慈愛に満ちた素晴らしい声でした。

仲間の人を天眞如さんを紹介するときに「ありがとう」と言われるときに

その時の声をよく聞いてみてごらんと話したことがあります。

僕の亡くなったおばあちゃんは、「ありがとう」と「すまいね」とだけで

死ぬことを恐れの言葉を聞いたことがなかった。

死の2,3ヶ月前の「ありがとう」は、天眞如さんの声でした。

 

昨日、友人の所に行きマンションのエレベ-タ-で3才ぐらいの

女の子とお母さん。

頭に綺麗なかんざし?をつけていました。

その子は、僕のことを見つめていた。

「その頭の飾りはきれいだね」と言ったら、

顔面、笑顔で喜んでいました。

お母さんにもお礼を言われました。

 

普通ならどのこおじさんかと黙って1階まで降りるだけ。

 

昔から、2,3才の子供が僕を見つめて何かを言いたげなことが

よくくあります。

でもこれらのことは、まさに清水義久さんの本に書かれたことです。

今日は、清水さんのマリア・イエスのセミナ-です。

どんな話か楽しみです。

ごめんなさい。今日は写真がないので・・・・

ありがとうございました。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする