昨日の続きです。
簡単なことですが、真実を語っていると思います。
すこしづつ始めています。
人はどうして自分で自分を変えることができないのか。
病気で困っていたり、借金したり、虐待を受けていたり、
どうにもならないほど苦しんでいる自分がいる。
何にも感謝できない自分がいる。
しかし、信じられないほど困った状態でも、
ここからやり直せば変わっていけるという境界線があるはずだ。
それには、人間にとっていちばん古い情報を
利用すればいいのではないか。
個人の主観とか文化のノイズとか、信念の共同主観みたいなものや、
幻想のニュアンス――そんなものが限りなく取り除かれた情報こそが
自分自身をケアできるのではないか
つまり、根源的なものとして何をトリガーにしたらいいのか、どれが効くのか。
愛とかセックスの感覚は、日高敏隆先生の動物行勤学によると、
人間の本能のプログラムに入っていない。
性衝動はあっても、人間には本能としての性行動はないという
(『動物にとって社会とはなにか』日高敏隆著 講談社学術文庫)。
だから、これは使えない。
使えるのは人間が持つ生物としての系統発生のいちばん古い感覚、
生きていくための本能だ。
つまり、生物の基本情報にある幸せの原点というのは、
食欲が満たされたという満腹感、それと、心地良い居住空間にいることだ。
だから、言葉でそういったエネルギーを誘導してみればいいのではないか。
そんなことを考え、「ごほんの祈り」ができた。
「この糧は私を守り、育てます。いただきます。」
「幸せいっぱい、腹いっぱい。ごちそうさま」
この順序が、「腹いっぱ、幸せいっぱい」だと、二つが別々になり、
トリガーにはならない。
「お腹はいっぱいですか」
「はい、お腹はいっぱいです、イエス!」
「そして幸せいっぱい?」
「え-、そうではないんだけど……」
ということもある。
でも、「幸せいっぱい、腹いぱい」というと、
「ああ、お腹はいっぱいで、このことが幸せなのね」と、
意識が勝手に自分が幸せな状況であると認識してしまう。
だから、ごはんを食べた後にこれをいう。
気のエネルギーを使えなくても、ごはんを食べる前と後にこの二つの言葉を言うと、
エネルギーを最大限にチャー・ジすることができる。
少なくとも自分のエネルギーを整えることが可能になる。
そして、もうひとつのトリガーの言葉、それはお風呂に入ったときだ。
「あったか-い、しあわせ~」
湯船に肩まで浸かって、のんびりとした気分で言う。
これは、本当にトリガーになる。
お風呂に浸かれば、気持ち良く、誰もが幸せに思えるひとときだ。
だから言葉に出して言う、「あったか-い、しあわせ~」と。
「ありがとう」という言葉が世間でよく使われる。
でも結局のところ、本当に困っている人は、「ありがとう」とか、
「ありがとうございます」という言葉を、なかなか素直に言えない。
例えば白分かガンなどの不治の病になっていて
助からないかもしれないと思っているとき、
「ありがとう」と素直に口から出せるだろうか。
普通の状態なら正しいと思えることでも、
困っているときにはそれが正しいとはかぎらない。
「ありがとう」と素直に言える人は、最初からいい人だし、それほど困っていないのだ。
「ごはんの祈り」なら、誰でもが普通に言えると思う。ごはんを食べて満腹感
の自我をトリガーにして、強制的に、かつゆったりと、自然治癒力を発生させる。
「あったか~い、しあわせ~」も、お風呂の中だったら素直に言えるだろう。
数年前ですが、畑田天眞如さんにまつわり付いていたときに
天眞如さんが、だれにでも「ありがとう」と声を掛けます。
その響きには、慈愛に満ちた素晴らしい声でした。
仲間の人を天眞如さんを紹介するときに「ありがとう」と言われるときに
その時の声をよく聞いてみてごらんと話したことがあります。
僕の亡くなったおばあちゃんは、「ありがとう」と「すまいね」とだけで
死ぬことを恐れの言葉を聞いたことがなかった。
死の2,3ヶ月前の「ありがとう」は、天眞如さんの声でした。
昨日、友人の所に行きマンションのエレベ-タ-で3才ぐらいの
女の子とお母さん。
頭に綺麗なかんざし?をつけていました。
その子は、僕のことを見つめていた。
「その頭の飾りはきれいだね」と言ったら、
顔面、笑顔で喜んでいました。
お母さんにもお礼を言われました。
普通ならどのこおじさんかと黙って1階まで降りるだけ。
昔から、2,3才の子供が僕を見つめて何かを言いたげなことが
よくくあります。
でもこれらのことは、まさに清水義久さんの本に書かれたことです。
今日は、清水さんのマリア・イエスのセミナ-です。
どんな話か楽しみです。
ごめんなさい。今日は写真がないので・・・・
ありがとうございました。