平成から令和に変わる時代を体で観ずることを考えました。
3.11の東北の大地震のあと3ヶ月ごと1年過ぎたころに祈りの旅を続けました。
そのことを思い出して、地震の遺構として残した旧荒浜小学校を訪れました。
帰ってきていろいろと調べたところ江戸時代から400年以上掛かって
海岸線に沿って約40km近い運河を作っていることを知りました。
貞山堀と松島まで続いており朝夕2回の便があったそうです。
津波にやられる前の町並みです。
仙台の書店で貞山運河の絵図があります。
真ん中より少し下に仙台空港が見えます。
震災のあと5月の連休の時に
この海岸線を北に向かって歩きました。
写真を良く見て見ると貞山運河が映っています。
荒浜の現在の貞山運河です。
公園に展望台が残っていました。
先日に行った時には、建物は全て撤去されていました。
崖岸線から数百mには一切建築が認められていません。
もし鎌倉の由比ヶ浜や材木座海岸ならどうなるのでしょうか。
ありがとうございます。
亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。
貞山堀に風そよぐ(大和田 雅人著)からです。
昭和の初めには朝早く、エグリガッコがそろって帰ってくる光景が見られた。
大漁となれば垂量を増した船を浜に上げる作業はひと苦労、
イワシ油を塗って滑りやすくしたバンギという本村を船の下に敷いて「よいしょ、よいしょ」。
家々の女性も子どもたちもロープを引っ張って手伝った。
楽しみはお礼とご褒美の意味を込めたおすそ分け。
漁師の家に生まれた50代の女性は「子どものころ、昼に浜へ出て、よく引っ張りました。
『おまかない』と言って取れたての魚をもらえるのがうれしくて」と話す。
荒浜の人々と話していると、初めて耳にする言葉と出会う。
バンギアゲ、おまかないなど枚挙にいとまがない。
「イナサの風」もそうだろう。
情けのイナサという暖かな南東の風で、
春から夏に大漁を呼ぶ。
海から「ホホホホー」と大漁を知らせる声がイナサに乗って田んぼにいる人々の耳に届いたとか。
反対にコチ(北東の風)は農作物の収穫に災いを招く冷風のこと。
やませと称され、雨降りと海の荒れる前兆でもある。
危うい時は西にそびえる太白山を目印にして船の位置を確認する。
「ヤマガケ」と言い、七ツ森や松島も頼りにした。
定置網の操業では、沖合の定置網漁場を5力統に分け、
それぞれのエリアを侵してはならない。
1年ごとに回り番でエリアを移動する。
ある時期には清徳丸、松吉丸、辰丸、福神丸など五つあった。
昔の写真集には5隻のエグリガッコがへさきをそろえて砂浜に陣取る一こまが写っている。
なんとも勇壮で荒海へ突き進んでいく力強さを感じさせる。
それぞれに漁業権を待ち、資産家である船主を頭にいただき、
多くの若い衆が付き従った。
大相撲でいえば「○○部屋」など五つの大部屋があるようなものだろうか。
船主は近所の娘との結婚話をまとめるなど面倒をみる。
次男、三男などは分家となって別の屋号を名乗るとともに、
農家のほか船大工や左官、鉄鋼業など職人
になる人が多い。
家柄が古く格式のある本家には「ド」、
分家は「ヤ」の屋号が後ろについて、源七郎殿、鳥羽屋とかを名乗るそうだ。
いまでも姓名より、屋号や船の名前の方が通りやすい。
この話を読んでいて、奈良時代の蝦夷の戦いの話を思い出します。
北上川を遡って交易していたこと。
北上川はこの運河の南の外れにあります。
歴史の重さを感じます。
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