河合隼雄先生の「神話と日本人の心」を読んでいます。
最初の切っ掛けは、神道を学んで行くうちに
古事記の話が切り離せないものになりました。
三浦佑之立正大学教授の本を何冊か読み、講演会にも出かけました。
ふと本屋で手に取ったのが、「神話と日本人の心」でした。
河合先生がユングの研究所に留学されたときに論文のテ-マが
古事記と神話でした。
読み勧める内に、今まで学んでいた古事記や日本書紀と違って
僕の古事記に対する知識がどんどん広がってゆきました。
このような見方があることに一種のカルチャ-ショックでした。
白川学館で二項対立の上に立って言霊を考えることについて
何か一つ違っているのでは思っていました。
この本の解説にあるように
「新石器時代に生み出された社会構造や空間構成や宗教の体系などは、
そのほとんどが三元論の思考がつくられている。
じつは日本神話もそういうふうに出来ているという「発見」が、河合隼雄の最大の手柄であると」
書かれている。
古事記では、ギリシャ神話のように善悪の二者選択ではなく
第三者の立場で広い目で考えられています。
そのひとつとして有名なアマテラスが岩屋にかくれたとき
アメノウズメが裸で踊って、岩戸を開かせた話には、河合先生の
話は大変に面白い話です。
女性の性器にこんなに面白い話があるとは始めてしりました。
岩屋から出るときに鏡に傷がついたことは象徴的に描かれていることなど、
今まで気づかなかった。
長くなりますが、紹介します。
自分が岩戸にこもって世界が暗闇になり、神々は困り果てているだろうと思っていたところ、
まったく逆に神々が笑い興じている。
どうしてだろうかと訊くと、アメノウズメは「あなたよりも貴い神がいるから、皆が笑っている」と答える。
アマテラスがおかしいと思っているところに、用意していた鏡を見せる。
これは明確には書かれていないが、おそらく鏡に写った自分の姿を見て、
アメノウズメの言ったように、自分よりも貴い神と思ったのだろう。
よく見ようとして戸より少し出たところで、タヂカラヲがその手を取って引き出し、
フトダマはその後にしめ縄を張って戻れないようにする。アマテラスが出てきたので、世界中が再び明るくなった。
この話のなかには重要なことが多く含まれているが、
まず、アメノウズメの性器を露出しての踊りがある。
この意味については、次章のギリシヤ神話との対比の際にもっと詳しく論じることになるが、
ここでまず注目したいのは、アマテラスとアメノウズメの対照性である。
どちらも「天」という字をいただく二柱の女性は、多くの点で対照的である。
アマテラスは輝かしい存在であり、天上的で、最初のときは武装して雄叫びをあげるぽどの男性性をもっている。
次章にも論じるように、スサノヲの侵入は、おそらく、
スサノヲとアマテラスとの性関係を示唆するものだが、神話は巧みにそれを避けていて、
アマテラスの肉体性を感じさせないように工夫されている。
アマテラスの姿は、したがって、アテーナーの姿、あるいは聖処女に近い存在として提示されている。
これに対して、アメノウズメは、まさに肉体を露呈するのだから、まったくの逆と言っていいだろう。
そして、アメノウズメがアマテラスに対して、「あなたより貴い神がいる」と言っているのは、
言うならば、このようなアメノウズメ的な側面を自分のものにすることによって、
ア了アラスは「より貴い神」になると言っていると解釈することができる。
鏡は、周知の白雪姫の母のもっている鏡のように、
「真実」を写す力をもつと考えられている。
いわゆる魔法の鏡である。
この際、ア了アラスを写した鏡は、
聖処女的なアマテラスが肉体性をそなえることによって、「より貴く」なった。
あるいは、がっては積極的に行動し、輝かしかったアマテラスが、受動性を体験し、
闇を知ることによって、「より貴い」神として再生してきた、と考えることができる。
このような点で、『日本書紀』第七段の「一書日」によれば、アマテラスが岩屋を出るときに、
鏡を岩屋に入れたのだが戸に触れて少し瑕(きず)がつき、
「其の瑕、今に猶存(うせず)」と述べられているのは、前記の点と符合すると思われる。
つまり「瑕(きず)ついてこそ、より貴くなる」という逆説を語っている、と思われるからである。
アマテラスの姿は、このように変容したのである。
天の岩戸神話の全体としての意味は、次章に総合的に論じるが、
ここで性器の露出にまつわる、その他の神話を紹介しておく。
まず、金田一京助によると、次のようなアイヌの話がある。
この話で印象的なのは冒頭に、「春は女の季節である。春が来ると青草が国土の上に萌えいで、
梢々が萌え出でる。冬は男の季節である。
冬が来ると青草が国土の上に長々と寝てしまい、梢も散りつくし、
白い雪が国土の上に積る」と語られていることである。
「春は女の季節である」という言葉は、次章に詳しく論じるように、天の岩戸神話の本質につながっている。
冬から春に移る季節は農耕民族にとって、穀物の「死と再生」を感じさせる季節なのである。
アイヌの村に飢饉魔がやってきて、人間の郷を飢饉に陥れようとして、
通りすがりの若者に、いっしよにやろうと声をかける。
その若者はオキクルミというアイヌの文化英雄的存在なので、
彼は何とか魔神の行為を妨げようと考える。
オキクルミはそこで魔神に酒を飲もうと誘うが、「酒は善神の喜ぶものだ、
なに悪神などが飲みたがるものか」と相手にしない。
そのとき、オキクルミの妹が「婦人着の前紐をはらはらとほどき、
ぽっくりした乳房をあらわに前をはだけた。
すると東の方がぱっと明るくなり、西の方がぱっと暗くなった」。
これを見ると悪神は考えが変わって、家に入ってきてオキクルミのすすめる毒酒を知らずに飲み、退治されてしまう。
このアイヌの伝承を紹介した松本信広は、オキクルミの妹の行為は、
「飢饉の魔をほほえます。
笑いというものは思いつめた意思をゆるませるものである。
悪魔の憤り、搾猛さは、笑いの中に消えてしまう」と述べている。
アイヌの魔神が笑ったかどうかは不明ではあるが、女性の性器露出によって、
「思いつめた意志をゆるませ」たことは事実である。
そこには緊張からの解放、「開け」ということが認められる。
この「開け」ということは、天の岩戸の戸が「開く」ことにも通じることである。
女性の性器露出が緊張の解放につながる例を示したが、
それが威圧的な力を発揮することもある。
琉球の古伝承では次のように語られている。昔首里の金城に食人鬼がいて、
人々は困っていた。ある人の妹が鬼に性器を示した。
鬼はそのは何をするかと尋ねた。
女は上の口は餅を食う口で、下の口は鬼を食う口だと答えたので、
鬼は恐怖のあまり、崖から落ちて死んでしまった。
この伝承の場合は、女性性器が鬼をも恐怖せしめるもの、として語られている。
次に吉田敦彦の紹介しているケルト伝説について見てみよう。
アルスターの王コンホバルの甥、クーフライッは半神的な勇士である。
彼は強敵をつぎつぎと倒し、都に帰ってくる。
しかし、戦いの熱によって身体を灼熱させているので、コンホバル王は彼がそのままの状態で帰ってくると、
自分の都が危険に陥ると考えた。
そこで王は王妃のムガイッを先頭に、百五十人の女たちに、全裸になって城外に出て、
クーフラインの前で裸体と恥部を露呈するように命じた。
すると彼はこの光景を見まいとして、懸命に顔をそむけた。
その隙に人々は彼の灼熱した身体を冷水を満たした桶につぎつぎと漬け、
その熱をさますのに成功した。コンホバルはクーフラインを自分のもとに連れて来させ、武功を称えた。
このケルト伝説では、性器の露出は灼熱した勇士の勢いを静めるのに役立っており、
呪術的な力を感じさせるが、勇士を威圧するというよりも、
むしろ、その心を和らげる力をもったのではないかと思われる。
キリスト教以前にヨーロッパ大陸に広がっていたケルト文明に対して、
最近は急激に関心が高まりつつあるが、神話も昔話も、わが国と共通する感じのものが多くあって興味深い。
以上、性器の露出についてのいろいろな物語を紹介してきたが、
それが威圧的であったり、和らげる力をもったり呪術的な力をもつと共に、
何らかの意味で「開け」に通じ、夜の開けることや、
冬の終わりに春の花開くときが来ることにまで関連することがわかった。
なおこれらと共に、それは「笑い」にも関連してくるが、
これについては、次章でギリシヤ神話との対比などを通じて論じることにする。
この本は、文庫本で¥1420円(税抜き) 岩波現代文庫です。
ありがとうございました。
人間の豊かさを感じますね。
ユング学派の人たちは、人間の本質を知ることの一つとして
神話を研究していることを知りました。
日本における縄文文化の解説は、その一面だけを見ているのではないでしょうか。
でも古事記や日本書記は素晴らしいことが隠されていることに驚かされます。
稗田阿礼は、2千年後に河合先生のように読み解かれるとは思ってもいなかったでしょうね。
でも分かっていたのかもと思わずにいられません。
本当は、人間とは時代が変わっても本質は変わっていないことを教えているのではないでしょうか。
沖縄の鬼の伝説は笑ってしまいますね。
故河合先生の本が、12/12日に出版されます。
「神話の心理学」 物語と日本人の心 岩波現代文庫です。
早速、購入しなければ・・・