話を神田橋に戻す。そこから銭湯に行き、銭湯から大手町に戻るのは芸がないから御茶ノ水方面を目指して歩いてたら、目の前で中央線と総武線が交叉。
聖橋から遠くに見えた緑の鉄道橋が目の前。そこを総武線が走り、少し手前の低い鉄道橋を中央線が走る。御茶ノ水駅を出た辺り(この写真のちょっと左手)で両線は分岐し、総武線は秋葉原を、中央線は神田を目指すのである。因みに、鉄道橋の下は昌平橋。大谷翔平の「しょうへい」と字が違う。ファンの方にはお気の毒である。
はて、ではなく、さて、ちょっと目を左に転じるとかなりの勾配の坂がある。
この坂の上が本郷台地の突端である。私は今、突端の際(きわ)の下にいるのである。江戸幕府は、開幕後すぐに日比谷の入江(現在の日比谷公園)の埋立にかかった。その埋立に使ったのがこの台地から切り出した土砂である。
そう言えば、放送開始直後のブラタモリで本郷台地を扱った回があったと聞く。録画があるか?パソコンのリストを検索。あった!15年前の第8回である。早速視聴。番組に入る前にちらっと映っていたニュース映像に表示されたドル円相場が87円台!アシスタントが久保田アナウンサー。ナレーションが草彅剛でなく戸田恵子。エンディングの歌は井上陽水だけど曲が違う等々、すべてにおいて「今は昔」である。当時、タモリさんのお歳は現在の私とだいたい同じ。「にもかかわらず」と言うべきか、「だから」と言うべきか、とってもお若い。
その本郷の回で、本郷台地の南端を深く削っている神田川の流れが自然の流れではなく、人工的に掘削されてできた流れだと言っていた。そうなのだ。元の川は南下して江戸城の近くを流れていたのを、江戸幕府が治水事業の一環として台地を掘削して向きを東向きに変えたのだった。で、元の川筋が(昨日ネタにした)現在の日本橋川になったのだった。「川の向きを東に変える」と言えば利根川もそう。あちらは東京湾に注いでいたものを銚子沖の太平洋に注ぐように付け替えたのだった。
びっくりしたのは、「弥生土器」のネーミング。が最初に発掘されたのが本郷台地上の文京区弥生という地であったからだという。縄文時代の次が弥生時代と呼ばれているのも、基をたどれば文京区弥生にたどり着くわけだ。なんでも、台地の際(きわ)は当時の一等地で人がたくさん(と言っても現在とは桁が違うが)住んでいたのだという。
「際」と言えば、タモリさんが、「(台地の)際を歩くのいい。なんでも際がいい。人間も服と肌の際がいい」と言ったのに対して久保田アナの「脱いじゃうとダメ?」などという切り返しはまったくNHKのアナウンサー離れしている。タモリさんはその後何人かのアナウンサーとコンビを組んだが、今見ると久保田アナとの掛け合いはなかなかのものである。そんな久保田アナはご幼少のみぎり、鈴木雅明指揮BCJの演奏会で、マタイ受難曲の子どもの合唱を歌った経験があるそうだ。横野君に言わせると、これはすごいことなのだそうだ。
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