ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

オーラル・ヒストリーの重要性と「やっぱり時間が経たないと証言がでてこないな」ということを痛感する

2024-06-23 00:00:00 | 社会時評

先日なかなか興味深い事実が報道されましたね。NHKの記事を、やや長いですが、1つ1つの記述が非常に貴重なので全文引用いたします。


オッペンハイマー “涙流し謝った” 通訳証言の映像見つかる
2024年6月20日 12時56分 

原爆の開発を指揮した理論物理学者、ロバート・オッペンハイマーが、終戦の19年後に被爆者とアメリカで面会し、この際、「涙を流して謝った」と、立ち会った通訳が証言している映像が広島市で見つかりました。専門家は「実際に会って謝ったことは驚きで、被爆者がじかに聞いたというのは大きな意味がある」としています。

ロバート・オッペンハイマーは、第2次世界大戦中のアメリカで原爆の開発を指揮した理論物理学者で、原爆投下による惨状を知って苦悩を深めたと言われていますが、1960年に来日した際は、被爆地を訪れることはなかったとされています。

今回見つかった映像資料は、1964年に被爆者などが証言を行うためにアメリカを訪問した際、通訳として同行したタイヒラー曜子さんが2015年に語った内容を記録したもので、広島市のNPOに残されていました。

この中でタイヒラーさんは、訪問団の1人で、広島の被爆者で理論物理学者の庄野直美さんなどが非公表でオッペンハイマーと面会した際の様子について「研究所の部屋に入った段階で、オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態になって、『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった」と述べています。

面会については、被爆者の庄野さんも後に旧制高校の同窓会誌などで明らかにしたうえで「博士は私に『広島・長崎のことは話したくないのでかんべんしてほしい』と語りかけた。背負っている重荷をひしひしと感じた」などとつづっています。

核兵器をめぐる議論の歴史などを研究しているアメリカのデュポール大学の宮本ゆき教授は「実際に被爆者に会って謝ったことは驚きで、被爆者がじかに聞いたというのは大きな意味があると評価したい」としたうえで「被爆者の願いはオッペンハイマーがことばに責任を持って核兵器廃絶に向かっていくことだったと思うが、面会後もそうした動きはなく、私たちに残された課題だと理解すべきだ」と指摘しています。

ロバート・オッペンハイマーとは 
ロバート・オッペンハイマーは、第2次世界大戦中のアメリカで、原爆の開発計画=「マンハッタン計画」の科学部門を指揮した理論物理学者です。

1945年7月に行われた人類初の核実験「トリニティ実験」を経て広島と長崎に原爆が投下され、アメリカでは戦争の終結を早めたとして脚光を浴びましたが、その後、被爆地の惨状を知り苦悩を深めていったと言われています。

1960年に来日しましたが、被爆地を訪れることはなかったとされていて、1967年に62歳で亡くなりました。

オッペンハイマーをめぐっては、原爆開発の過程などを描いた映画がアカデミー賞で7部門を受賞し、日本でもことし3月に公開されました。

タイヒラー曜子さんと庄野直美さん
今回の映像資料に証言を残していたタイヒラー曜子さん、旧姓・浦田曜子さんは通訳として被爆者の証言活動に同行しました。

ドイツに住む夫のウルリッヒ・タイヒラーさんによりますと、タイヒラー曜子さんは1964年の東京オリンピックで通訳を務めたほか、ドイツに移り住んだあともG7サミットといった要人が集まる国際会議などで通訳を担当したということです。

タイヒラーさんは、広島市で証言した4年後の2019年に亡くなりました。

オッペンハイマーと面会した庄野直美さんは、原爆投下のあと家族の安否を確認するため、広島市内に入り被爆しました。

理論物理学が専門で広島女学院大学の教授などを務めながら、長年にわたって原爆被害の研究や核兵器廃絶を目指す活動に取り組み、2012年に86歳で亡くなりました。

タイヒラー通訳が語ったオッペンハイマー
今回見つかった映像資料で、タイヒラーさんは面会に同行した際の自身の受け止めや面会の様子、それにオッペンハイマーの印象などについて次のように話していました。

「私自身がすごくまだ未熟だったので、重要性を個人としては当時認識していなかったと思う。オッペンハイマーというのは、マンハッタン計画の学者の中でも特に核の開発で重要な役割を果たした人で、核開発をしたこと自体、ものすごく後悔していた。被爆者に会った時に私は『同行してください』と言われて行ったわけだが、研究所の部屋に入ったその段階で、オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態になって、そして『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった。会合の記録はたぶんないんだと思うし、重要性というのは私自身も分かっていなかった。その前に、トルーマン大統領のライブラリーに行った時に、トルーマンは被害者の人たちを前にして『これはアメリカが取った正当な行為だ』とあくまでも原爆を投下したことを正当化した。それはそれなりの論理があるんだろうと思うが、トルーマン大統領のことばとオッペンハイマーのことばの、この対比。これは私にとって重要な経験だった」

庄野さんとオッペンハイマー 面会予定記した資料も 
今回の映像資料が残っていた広島市のNPOを創立したアメリカ人女性が、帰国後に設立したウィルミントン大学の平和資料センターには、1964年に被爆者たちが被爆証言を行うためにアメリカなどを訪問した、「世界平和巡礼」に関連する複数の資料が残されていました。

このうち、訪問団のアメリカでのスケジュールを記した資料には「1964年6月に庄野博士がオッペンハイマーとの非公表でのアポイントのためプリンストンを訪れる」などと記されています。

また、訪問団のコーディネーターが面会の約束の2か月前にオッペンハイマーに宛てて書いた手紙も残されていて「庄野博士のアメリカ滞在中の1番の望みは、あなたと会って話すことだ」と記されています。

また、手紙には「面会は公式でもそうでなくてもあなたの裁量次第だ」という記述があるほか「公式な議論の場が設定されようとされなかろうと、庄野博士は個人的にでもあなたと専門分野の仕事について話し合いたいはずだ」とも書かれていて、庄野さんがオッペンハイマーとの面会を強く望んでいた様子がうかがえます。

広島市のNPO理事長 “被爆者が事実を知ることに価値がある” 
映像資料が残されていた広島市のNPO「ワールド・フレンドシップ・センター」の立花志瑞雄理事長は「原爆の開発に関わったオッペンハイマーが、国家のレベルを越えた一人の人間として、被害者への感情を表現したのではないか。広島・長崎の被爆者がその事実を知ることは価値があると思う」と指摘しました。

また、立花理事長は、アメリカを訪れた被爆者の希望で面会が実現したとみられることについて「今も多くの被爆者がさまざまな場に出かけて証言などの活動をしているが、その一つ一つが大切なんだと改めて感じさせられる。今回見つかった証言だけでなく、60年前に被爆者がアメリカなどを訪問して核兵器の廃絶を訴えたという事実も少しでも多くの人に知ってもらいたい」と話しています。

専門家 “核兵器廃絶が私たちに残された課題” 
倫理学が専門で、核兵器をめぐる議論の歴史などを研究しているアメリカのデュポール大学の宮本ゆき教授は「オッペンハイマーが実際に被爆者に会って謝ったことは驚きで、被爆者がじかに『ごめんなさい』ということばを聞いたというのは大きな意味があると評価したい」と述べました。

一方で「多くの被爆者の願いは、オッペンハイマーがそのことばに責任を持って核兵器廃絶に向かっていくことだったと思うが、残念ながらオッペンハイマーの1964年以降の取り組みを見ても、そうした動きはなかった」と指摘しました。

ただ、宮本教授はアメリカの状況について「アメリカには『核を持って武装しなければならない。核が私たちを守ってくれる』という核抑止論が根強くあるほか、当時は核の危機も高まっていたので、核兵器を開発した人が核兵器を否定することは難しかったと思う」と述べました。

そのうえで宮本教授は「オッペンハイマーが核兵器廃絶に向けて動かなかったのであれば、それは私たちに残された課題だと理解するべきだ。私たちが行動することで、オッペンハイマーの『ごめんなさい』ということばとの間を埋めていかなければいけないと思う」と指摘していました。

記事にもありますように、ロバート・オッペンハイマー博士(以下肩書・敬称略)は、1960年に日本に来ています。そしてこの時は、被爆地である広島と長崎へは訪問していない模様です。彼が最終的にどのような理由で広島・長崎を訪問することを見送ったのかはもちろん他人のうかがえるものではありませんが、彼が日本に来たら広島に行こうが行くまいが、どっちみち「どの面下げて来れるんだ」かそうでなければ「なぜ行かない。無責任だ」といわれます。どっちにしてもいい顔をされません。なおWikipediaから来日時の彼の発言を引用しますと、


1960年9月に来日した際に原爆開発を後悔しているかという質問に対して「後悔はしていない。ただそれは申し訳ないと思っていないわけではない」と答えた。ただし、この発言はFBIの監視下に置かれて以降のものであり、前述のような後悔の念が垣間見えるような発言を避けている。広島県・長崎県を訪れることはなかった。

とのこと。そうしたら、さっそく上の報道が紹介されていましたね(2024年6月21日の確認)。


被爆者が1964年に渡米した際にオッペンハイマーと面会した。彼は涙を流して何度も謝罪の言葉を述べたという。

というわけです。ところでオッペンハイマーと面会したのは、理論物理学者の庄野直美氏(男性)です。氏は、広島出身でしたが、当時九州帝国大学の学生であり、お亡くなりになった際は広島女学院大学の名誉教授でした。あるいはですが、物理学者としてより平和運動家としての知名度の方が高いかもしれません。Wikipdiaの記事は内容が薄いので、興味のある方は氏の訃報記事をご参照ください。当方庄野氏について知識がないのですが、たぶんそちらの方面では知名度の高い方なのでしょう。そして、庄野氏のオッペンハイマーとの面会は、おそらく氏の人生のなかでも最も心の動かされた瞬間ではないかと思います。

上のNHKの記事でも、庄野氏は旧制高校の同窓会誌でその時のことを書いているとありますので、この件がまったくのシークレットだったわけではないようですが、たぶんオッペンハイマーの号泣などはやはり庄野氏としても公にはしにくいものを感じたのでしょう。オッペンハイマーは1967年に亡くなっているので、それから45年の間庄野氏はご存命だったわけですが、それでもです。

で、すでにお亡くなりになっている通訳のタイヒラー曜子さんが、この話を2015年に話しているのがみそだと私は思うわけです。つまり2012年に庄野氏が亡くなった後だから、あえてこの話を記録する形で公表したということなのでしょう。ご存命だったらはたしてそれを話したかどうか。そしてこのタイヒラ―曜子さんの証言が、9年の時を経て発表された経緯というのも、彼女が2019年に亡くなったことがその1つの理由なのでしょう。おそらく記事でも紹介されている映画『オッペンハイマー』が今年公開されて、オッペンハイマーへの注目が一気に高まったということは当然の前提です。

なお記事中に出てくるタイヒラ―曜子さんの夫であるウルリッヒ・タイヒラ―氏は、日本でも著書が翻訳されています。

[高等教育シリーズ] ヨーロッパの高等教育改革 (高等教育シリーズ) (高等教育シリーズ 138) 

さて、庄野氏は、オッペンハイマーとの面会をエッセイのようなものでは書いたようですが、おそらくそれらの詳細は、人目に触れる形で活字(もしくはネットでもいいですが)発表されることはなかったかと思います。私的な場ではそういうことについての話もあったかもですが、なかなかそれらは外には出ません。が、今回は、その面会で通訳を務めた人がわざわざ公表したことですから信ぴょう性は高いでしょう。そしてその発言が映像で記録されているということは、これはまさに「オーラル・ヒストリー」というやつでしょう。当事者が書いてくれないのだから、そうなると「聞き取り」「聞き書き」「ライフヒストリー」とかの精神で、経験者・関係者に話をしてもらうしかないわけです。とくに体験者が近くにいる近現代史の研究にとってはなおさらです。

が、残念ながら、そして当然ながら、こういった話は、一定の時間が経たないとなかなか関係者も話をしてくれません。他人に迷惑がかかるということもあるし、やはりご当人がどうしても話したくないこともいろいろある。今回の証言も、通訳という第三者の立場である人からのものであるが故であるという側面があることは確かでしょう。

それでちょうどNHKで次のような番組が放送されました。


「遺(のこ)された声 〜女子学徒 100本の録音テープ〜」
初回放送日:2024年6月21日

沖縄戦に動員され、負傷兵の看護にあたった女子学徒たち。戦後に元学徒45人の証言を収めた大量の録音テープの存在が明らかになった。その声は今に何を語りかけるのか。

沖縄戦では10代の女学生およそ400人が動員され半数近くが亡くなった。生き残った元学徒が1980年代に体験を語った録音テープはおよそ100本。戦争前夜の青春の日々、病院壕の過酷な実態、死を覚悟したときのこと、戦後の苦悩…鮮明な記憶が語られている。録音したのは戦後沖縄を代表する写真家・平良孝七。証言に耳を傾け、ひとりひとりにレンズを向けていた。遺(のこ)された声と元学徒たちの肖像が問いかけるものは。

この証言テープは、だいたい1980年代に収録されたとのことです。ということは、1945年の受難から35年以上たってのものであり、そういった録音が容易になった時代背景もあるし、また時が経たないと、そういう話を第三者に語ることができないという側面もあるはず。たとえば最後の沖縄県官選知事だった島田叡などは、ご当人が死んだ後まもなくにでも関係者が真偽の怪しい話や片言隻句を大げさに書き立てて美化してくれるなどということすらありえますが、一般人はもちろんそんなことはないわけで、そうなるとオーラル・ヒストリーの強みが出てきます。文章を書くのが得意な人たちばかりでは(当然)ない。話をしてもらいそれを第三者がまとめる、書き起こしたり音声資料をそのまま活用することも可能でしょう。しかしそのためにはいろいろ時間もかかります。もちろん話は、政治や戦争といったものばかりではなく、例えば映画やスポーツの秘話などもご同様。やはり映画監督が亡くならないと、黒澤明大島渚の映画なども、細かいところまで論じきれないところがあるでしょう。存命の人物で言えば、山田洋次などもたぶんそうでしょう。長嶋茂雄に対して、本格的に彼の功罪もふくめて議論できるのは、やはり彼が死んだ後ではないか。彼(女)、上に上げた人たちには女性はいませんが、ともかくその人たちの関係者も、存命中は言いにくいこともあるでしょう。そう考えると、飯塚事件を扱った最近のドキュメンタリー映画『正義の行方』も、映画の中で証言している警察関係や、家族、ジャーナリストらや、映画でなくそれ以前の報道で取材に応じている人たちも、だいぶ昔の事件だから、すでに死刑が執行されているから(冤罪なら、これはとんでもない話ですが)という人たちも多いはず。

なお本日6月23日が沖縄戦における日本軍の組織的抵抗が終わった日とされていますので(日本軍の指揮官だった牛島満長勇が自ら命を絶った日。違う日という説もあり。最終的に決着したのは、日本軍が沖縄戦降伏文書に調印した9月7日)、本来なら旅行の記事を発表する日曜ですが、こちらの記事で更新します。旅行記事は、明日発表します。なお島田知事の関係では、下の記事もお読みいただけると幸いです。ほかにも沖縄戦に関する記事は複数発表しています。

沖縄県最後の官選知事である島田叡は、第32軍司令官牛島満らの推薦で知事になった?

また『歴史評論』2024年8月号は、オーラル・ヒストリーについて特集するのとのことですので、発売されたら私も目を通したいと思います。これは、bogus-simotukareさんの記事から知りました。いつもながら感謝を申し上げます。

新刊紹介:「歴史評論」2024年8月号


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5 コメント

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映画監督・田中絹代 (bogus-simotukare)
2024-06-23 04:39:55
>「やっぱり時間が経たないと証言がでてこないな」ということを痛感する

 https://bogus-simotukare.hatenadiary.jp/entry/2024/07/14/000000_1
に追記しましたが、
以前、貴ブログhttps://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/c0bbf832164c1c8f84334be41b171af5でも取り上げていた「田中絹代の映画監督」などもそうでしょうね。「田中の黒歴史扱い」だったが故にそうなったわけですが。
返信する
>bogus-simotukareさん (Bill McCreary)
2024-06-23 14:35:04
仰せのとおり田中絹代の映画監督の話などはまさにそれですね。ご当人もそうでしょうし、関係者もとてもおおぴらに話したいようなものではなかったのでしょう。
返信する
Unknown (bogus-simotukare)
2024-07-17 05:32:09
 本日、歴史評論を読んだ上で簡単に記事を書いてみましたのでお読み頂ければ幸いです。
https://bogus-simotukare.hatenadiary.jp/entry/2024/07/14/000000_1
返信する
>bogus-simotukareさん (Bill McCreary)
2024-07-17 22:04:47
ご紹介ありがとうございます。本多勝一氏も、『オ-ラル・ヒストリ-と体験史: 本多勝一の仕事をめぐって (歴研アカデミー 3) 』という本を出しています。

https://www.amazon.co.jp/dp/4250880397
返信する
平泉澄へのオーラルヒストリー (bogus-simotukare)
2024-07-19 00:56:32
 すっかり忘れてましたがhttps://bogus-simotukare.hatenadiary.jp/entry/2019/08/02/135645で紹介した以下のものもオーラルヒストリーですよね(苦笑)。

http://clio.seesaa.net/article/365379599.html
平泉の専門は日本中世史で、軍事に関する専門的著作は特にないはずなのだが、平泉はこのインタビューの中で、陸軍士官学校での講義などを通じて軍人に自分の信奉者が多かったことを自慢げに述べ、「私は陸軍というものを鍛え直した」「陸軍が私を畏れ敬った」などと豪語する。

>実戦しておると、わしのところへくるよりほかはないわけです。米内[光政]さん(ボーガス注:林、第一次近衛、平沼、小磯、鈴木、東久邇宮、幣原内閣海軍大臣、首相など歴任)などは戦争に一ぺんも出たことがないし、岡田[啓介]さん(ボーガス注:田中、斎藤内閣海軍大臣、首相など歴任)も宇垣[一成]さん(ボーガス注:清浦、加藤高明、第一次若槻、浜口内閣陸軍大臣、朝鮮総督、第一次近衛内閣外相など歴任)も実戦には出たことがない。実戦をやってみると彼らが地図で考えているようなものではない。下の人はみんな私によって動くというくらいの勢いなんです。それが海軍としては非常な不幸でしたね。陸軍は上層部もみな私を信頼してくださり、言っては悪いけれども東条[英機]さん(ボーガス注:第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相など歴任)でも小畑〔敏四郎〕さん(ボーガス注:参謀本部第3部長、陸軍大学校長など歴任。皇道派だったため226事件後予備役に編入)でもそうですが、あとでいえば陸軍大臣阿南[惟幾]大将、これは入門願書を出されたんですよ、私に対して。それから下村大将が最後ですがね。手紙には最末の門人、下村定(ボーガス注:戦前、陸軍大学校長、北支那方面軍司令官を歴任。戦後、東久邇宮、幣原内閣陸軍大臣を歴任(最後の陸軍大臣))と書いてありますよ。全然態度が違うんです。[p. 76.]

 日露戦争(1904~05)中、岡田啓介は装甲巡洋艦「春日」副長として日本海海戦などに参加しているし、米内光政も海軍中尉として駆逐艦「電」(いなづま)に乗り込んでいる。また宇垣一成も陸軍第八師団参謀として出征している。岡田は日露戦争のみならず日清戦争にも第一次世界大戦にも従軍した歴戦の将である。その三人を「実戦には出たことがない」と勝手に決めつけ、自分のほうが戦争のやり方をよく知っている、などと言い出すのだからまことに恐れ入る。むしろ、東條英機(1884~1948)以下陸軍上層部が、こんな程度の軍事知識の持ち主を「信頼」していたとすれば、そっちの方がはるかに問題だろう。
 いや、もちろん、平泉の回想が正確なら、という話だが。

https://bokukoui.exblog.jp/19767190/
平泉澄
「私はプロレスが好きでね。猪木がさんざん負けて、これはあかんかと思うと、彼は逆転する。それは何とも言えぬ楽しみですわ。それはどんなに負けても最後の一戦で勝てば、終わりよければ万事よしなんです。それで(ボーガス注:人間魚雷)回天でも何でも一生懸命やった。」
 平泉先生に誰も、プロレスは演出だということを突っ込まなかったのでしょうか。平泉はインタビューの続きを読むと、「ワシの言うことを聞かなかったから日本は負けた」くらいの勢いですが、プロレスをガチと思い込むような精神で国を指導されては、敗戦はまぬかれないでしょう。
 十年ぐらい前に聞いた小生もいまだに忘れられない話なので、ここに記しておきます。これは、当時九州大学教授だった有馬学先生が、東大の集中講義の際にされた話で、聞いたものはみな講義の内容は忘れてもこの話は忘れられなかったというものです。
 それは、伊藤隆先生が大学院生を何人か手伝いに連れて、はるばる石川県(ボーガス注:原文のまま。恐らく福井県が正しい)に平泉澄をインタビューに訪れたときのことでした。伊藤先生一行に会った平泉は開口一番、こういったそうです。
「わたくしが日本を指導しておりましたときの話をいたしましょう」
 ちょっと待て。お前が指導しとったんかい!と伊藤先生は平泉の吹きぶりに内心呆れたそうですが、そこは抑えてインタビューを始めました。とにかく録音を続けていました。そして話が佳境に入ったとき、平泉が突然「録音を止めてください」と言い出しました。
 平泉は突然日本刀を抜き放ち、こうのたもうたそうです。
「大和魂とは、これです!!」
 少なくとも晩年の平泉は、どこか精神の平衡に問題を抱えていたのではないかと思わざるを得ない話ではあります。
 で、すっかり呆れ返った伊藤先生に対し、お供の院生はあまりの展開におかしくてたまらなかったのか、日本刀を抜いた平泉を記念撮影しようとしたそうです。
 院生「先生、もうちょっとこっち向きに」
 平泉「おお、こうか」
 平泉は結構満更でもない様子だったそうで、やはり教育者として若い者には優しかったのか。いや、単に受けて嬉しかっただけなのかもしれませんが、その辺はもはや分かりません。

http://clio.seesaa.net/article/366604713.html
 先日、国立国会図書館に行ったついでに伊藤隆氏の回想録『日本近代史:研究と教育』(私家版、1993年1月序)を確認してみたところ、平泉澄インタビューについての記述が出てきたので、その箇所を紹介しておく(伊藤氏は当時、東京大学文学部助教授。[…]内は引用者註。強調は引用者による。以下同じ)。
>[昭和]五三年度[1978]は、斯波義慧氏や茅誠司・元(ボーガス注:東大)総長などの聞き取りを行い、また福井県まで出張して、平泉澄氏の聞き取りを行った。平泉氏はとにかく権威主義で、満洲事変以後について話されたときに、「これから私が日本を指導した時代についてお話します」と始まったのにはやりきれなかった。また陸大での講義の時に「これが大和魂である」と言って日本刀をすらりと抜いてという話の際に、予め奥さんに用意させていたらしい日本刀を実際に我々の目の前で抜いて見せたのには私は鼻白む思いであった。しかし酒井氏[酒井豊=当時、東京大学百年史編集室員]を初め若い諸君は面白がって、酒井氏などは「先生ちょっとそのまま」とか言って、平泉氏もポーズをとり、写真撮影をしたが、これも私には予想外の出来事であった。二日間正座で聞かねばならぬ「お話」が終わってお茶になった時に、奥さんが「主人は血圧が高いのに、テレビのプロレスが好きで困ります」という話をされ、私が平泉氏に「どうしてプロレスがお好きですか」と開いたら、「隠忍に隠忍を重ねて、最後にパッと相手を倒すという所が日本精神に通じる」と答えたので、私はその稚気に溜飲が下がったような気がした。とにかくこれまでにない奇妙な聞き取りであった。[伊藤隆『日本近代史:研究と教育』私家版、1993年序, pp. 293-294.]

 この場面、当のインタビューでは次のようになっている。なお、平泉が陸軍士官学校での初講義を行ったのは、1934年(昭和9)4月16日である(若井敏明『平泉澄』ミネルヴァ書房、2006年, pp. 209-210)。

>そのときに私は刀を持って行った。大刀をひっさげて行って、東条さん[東條英機=当時、陸軍士官学校幹事]にちょっと会釈をして壇にのぼり、演壇上に刀を置いて話を始めた。
 この刀は終戦後、人に預けてこちらへ帰ったものだから、預かってくれた人が進駐軍を怖がって、これを土中へ隠した。それで刀が少し崩れましたわい。文久二年十二月[1863年1~2月]、二尺五寸[約 75.8cm]、大刀ですわ。これをひっさげて行ったんです。そして壇上でこれを抜いた。陸軍よ、この刀のごとくにあれ。第一に強くあれ、戦争に負ける陸軍を見たくはない。戦えば必ず勝てり。いかなるものでも手向うものをたたき斬るその力を持て、弱き陸軍をわれわれは見る気がしない。この刀は何ものをもたたき斬るんだ。その武力を持て。第二に陸軍よ、その武力をなんじの私の意思によって発動するものではないぞ。陛下の勅命によって動け。私の意思を遮断するこの刀を見よ、ここに「山はさけ海はあせなん世なりとも君にふたごころわがあらめやも。」これは将軍[源]実朝の歌ですが、すべては陛下によって決する、それ以外私の意思によって動かしてはならん。それはみんなが何とも言えぬ驚きだったんです。
 当時はみんな陸軍を恐れておった。五・一五や満州事変からあとはそうでしたが、その陸軍に対して大喝一声これをやった。この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した。世間の知らんものは、私が陸軍と結託し、また阿諛して威張っているようなことをいう。そんなものではない。陸軍が私を畏れ敬った。
 これは土中に置いたために刃が崩れたんですが、明治維新直前の日本精神の生粋ですわ。文久二年というちょうどそのときが。この刀自体はたとえ刃が少し欠けても、歴史的な意味では昭和の日本史の中で重要な働きをしたんですよ。[「平泉澄氏インタビュー(5)」『東京大学史紀要』第18号、2000年3月, p. 65.]

 「83歳の老人が、遠くからわざわざ昔話を聞きに来てくれた、自分の孫ぐらいの年配の後輩たちに向かって、思い出の日本刀を抜き出して見せて自慢した」というのは、なんとか笑い話で済ませてもよさそうだが、「39歳で博士号を持つ東京帝国大学助教授が、陸軍士官候補生たちの前で、抜き身の日本刀を構えて『陸軍よ、この刀のごとくにあれ』と大見栄を切ってのけた」というのは、さすがに笑えない。
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