ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

ビョルン・アンドレセンについての面白い記事が発表された(おかげさまで、私のブログもアクセスが良い)

2021-03-09 00:00:00 | 映画

日曜日(3月7日)、ネットを見ていて「お」と思いました。これは拙ブログにも関係する面白そうな記事です。2月16日の発表とのことですが、Yahoo!で紹介されてから読者がついたのでしょう。この記事を書いている7日午後5時54分ごろのYahoo!のエンタメ記事のランキングでこの記事が1番上にランキングされています。

>大人たちに性的に食い物にされた“世界一美しい少年”~『ベニスに死す』ビョルン・アンドレセン 【毒家族に生まれて】
50年前、「ルーヴルに飾るべき」とまで評された美少年の人生は、名声と引き換えに汚された。

少年の名は、ビョルン・アンドレセン。“世界一の美少年”として輝いた彼の人生は、大人たちによって性的に搾取され続けた。そこに導いたのは、子どもへの愛情不在の家族、両親、そして祖母の業。

のっけからかなりえげつないことが書かれていますが、確かに彼は、まったくもってひどく大人たちに翻弄されました。他人であり師匠のような存在でありうるルキノ・ヴィスコンティにしても彼にとっては、翻弄をし続ける存在でしかありませんでした。

そしておかげさまで私のブログも多くのアクセスに恵まれました。こんな感じです。

 

『ベニスに死す』がテレビで放送されたり、ネットでビョルン・アンドレセンに関係する記事が公開されると、拙ブログでの彼を題材にした記事を読んでいただけています。今回もそうなりました。ありがたいことです。

それでは、今回の記事はどのようなものだったのでしょうか。要所要所の部分をご紹介します。引用は、もとの「Elle」のサイトからでは引用しにくいので、Yahoo!のニュースサイトより。

>両親を失った幼少期

1955年1月26日、ビョルンはスウェーデン・ストックホルムに生まれた。幼少期の思い出に両親の姿はほとんどないが、親の“業”はこの後、彼の一生に付いて回る。

デンマークで育った母はボヘミアンで、ヨーロッパを転々としながら過ごし、頻繁にパリの芸術家コミュニティに入り浸っていた。そんななか突然妊娠する。相手の男性は生まれる前に若くして亡くなったとされ、何者なのかもビョルンは知ることがなかった。彼の一生は父を喪う所から始まったのだ。

母は産んで1年もしないうちに彼を両親に預け自分はノルウェー人男性と結婚。しかし4年で破局してしまう。

母は、夫に捨てられた哀しみから抜け出せず、抑うつ状態に苦しむ。度々息子の前から姿を消してはまた戻りを繰り返し、そして、10歳のとき再び失踪。6か月後母の顔を見た時、彼女は死体となっていた。自殺だった。

「僕の人生に両親がいたことはないんだ」 父だけでなく、母にも捨てられ、愛情を受けないまま育った。『ベニスに死す』に関する当時の無数の来日インタビューでビョルンは家族に関する質問には、ほぼ祖母のことしか答えていない。他はわずかに祖父も存在することが語られているだけ。

祖母、自分がセレブになるために孫を売りに出す

しかし、この祖母も決して彼に愛情を与える存在にはならなかった。彼女は孫の美貌に目を付け、子役にして稼ごうと目論んだ。これは美容師としての稼ぎだけでは生活が苦しかったための仕方ない選択だと同情はできない。

祖母は自分がセレブになりたいタイプの人間だった。孫が働く傍らで豪華な装いでくつろぐ彼女は、周囲には保護者として愛情を注ぐよりも先に、ビョルンによってもたらされる金銭と名声に酔っているようにも見えた。自分のため、エージェントに言われるがまま、我が孫を業界に差し出していたのだった。

(中略)

それはまるで、かつて欧米人が植民地の奴隷を見世物にしたのと同じ構図。案の定ビョルンは彼自身の名前ではなく、役名“タッジオ”で呼ばれるようになり、人格がないかのごとく扱われたが、ヴィスコンティはそう仕組んだ責任を取らなかった。もちろん大人の俳優として昇らせる次の階段を用意することはなかった。
 
(中略)
 
最初は役作りと称し、15歳のビョルンをゲイバーに連れて行った。アッシェンバッハに見入られるタッジオと同じ体験をするためだと。だが、これはヴィスコンティの自己承認欲求に過ぎない。珍しい希少な蝶を見せびらかしたのだ。   その時の経験を、のちにビョルンは新聞のインタビューでこう語っている。「(ヴィスコンティと)彼のスタッフにゲイバーに連れていかれたんだ。ウェイターたちに気まずくなるようなことをされて、みんなが舐めるような視線をぶつけてきた。まるで皿の上の汁を滴らせた肉を眺めるようにね」
 
ゲイ・コミュニティでは多くの出会いがあったと語り、満たされない愛情の穴埋めになったことも認めつつ、「恥ずかしくて死にそうだった」とその時の衝撃を表現してもいる。

ビョルンは“social suicide”という言葉を使ってこの時説明したのだが、実際彼はこれをきっかけに恐ろしい「社会的死」を経験する。撮影が終わり16歳になった後も、ヴィスコンティと彼のスタッフはゲイバーに連れまわした。そこで行われていたのは、エスコートというと聞こえはいいが、大人の男性たちによる“愛玩具”のトレード。母と同じ轍を同じパリで踏んだのだった。

そこで具体的に何が行われていたのか、本人は多くを語ってこなかったが、生活費と日々のプレゼントの代わりに(本人は何に対して支払われているのかわかっていなかった)、性的な搾取があったことは、いくつかの証言者により語られている。ヴィスコンティは出がらしになった“世界一の美少年”を、一種のオークションにかけたのだ。

追い打ちをかけるように祖母と結託したエージェントはビョルンを搾取した。『ベニスに死す』が公開されたあとヴィスコンティから見放されるのと反対に人気が爆発した日本での仕事を祖母は応援した。来日中は本人もある程度楽しんだとはいえ、エージェントと祖母にとってそれはあくまでCMやレコード発売などで儲け目当てにすぎなかった。そのため、ビョルンは連日のハードスケジュールをこなすために、薬物を飲まされていたこともわかっている。

(後略)

上でのアンドレセンの談話がある新聞記事のインタビューを、私も翻訳しています。

ビョルン・アンドレセンについての2003年の記事(1)

ビョルン・アンドレセンについての2003年の記事(2)

アンドレセンの場合、家庭環境が必ずしも恵まれていなかったことが、彼の祖母の過剰な彼への介入につながりましたし、彼もまた愛情に飢えていた人間だったようですね。『ベニスに死す』への出演により彼は、世界中の様々な人間からいろいろなニュアンスで愛されましたが、そのような愛は、彼を苦しめるもの、迷惑なものでしかなかったのでしょう。そして記事にもあるように、ヴィスコンティにとってもビョルン・アンドレセンとは、そのほんの一瞬の美貌があればよい存在でしかありませんでした。たとえば『ベニスに死す』の次の作品であった『ルートヴィヒ』に、彼を出演させてその後の彼の俳優活動を支援するなんてことはしませんでした。この映画で、オットー1世 を演じたジョン・モルダー=ブラウンの代わりにアンドレセンを起用するなどということはなかったわけです。ヴィスコンティにとっては、ヘルムート・バーガーのような寵愛の対象ではなかったのでしょう。

そして現在の彼は、『ベニスに死す』の当時とも、あるいは表舞台にまた顔を出すようになった21世紀初頭ごろの姿ともまるで違う姿です。たぶんそれは、過去との決別の意味合いがあるのでしょう。美少年のお坊ちゃん(実際のアンドレセンは、とても「坊ちゃん」なんていえるような存在ではありませんでした)というイメージを捨て去ることが、彼自身の大きなアイデンティティであったし、今後もまたあり続けるのでしょう。

最後の写真の出典はこちらのサイトより。隣の女性は、カタリーナ・ハール(? どう読むのかは不明)という女性です。スウェーデン語のWikipediaはこちら。ラジオジャーナリストの模様。アンドレセンが、彼女の取材に応じた際の写真のようです。


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