ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

2011年3月11日午後2時46分にどこでどうしていたというのは、多くの日本人にとって忘れられない経験となってしまった

2021-03-11 14:46:00 | 東日本大震災他災害関係

東日本大震災が起きたのは、2011年3月11日14時46分18.1秒だそうです(Wikipediaより)。

すみません、今回の記事は、あえて地震が起きた時間と秒に合わせて更新される設定としました。あらためてお亡くなりになった方、ご遺族の方々への哀悼とお悔やみをのべますと同時に、被害にあわれた方々へのお見舞いも併せて申し上げたいと思います。

それで、その時日本にいないとか、まだ生まれていない、物心がついていないとかなら仕方ないですが(「生まれていない」「物心がついていない」というのは、このブログの読者の方には少ないでしょう)、あなたは2011年3月11日の地震が起きた瞬間、どこで何をしていたでしょうか。たいていの方は、記憶に残っているんじゃないんですかね。

私は、当時の勤務先であるビルの18階にあるオフィスにいました。18階でしたので、免震構造ではあるのでしょうが、よく揺れました。なかなか怖い気分を味わいました。

これは前にも書きましたが、その日カウンター越しに図面を見せて説明をしていたのですが、あまりに揺れがひどい、しかし私が対応している客が帰らないので、ついに私は、その人に大要「今日はこういう状況なので帰っていただきたい」ということを申し述べました。わが人生でこんなことを言ったのは最初で今のところ最後です。その人も別に何も言わずに帰りました。

そのあと同僚みんなでテレビを見始めたところ、津波が来襲して、ヘリコプターからの空撮映像で、津波から逃げている人(たぶん男性)が、津波に飲み込まれる寸前に、NHKのカメラが「まずい」と切り替わったのを今でも覚えています。あの人が助かった可能性は、万に一つもないかと思いますが、思い出すたびに暗い気分になります。

そしてその後自宅や家族に連絡を取ることもできませんでした。固定電話も携帯も、このような場合はなかなか大変だなと改めて思いました。そして18階から歩いて降りたことも思い出します。

災害ですから、もうこのようなことが起きないということはないし、またいつの日かすごい災害が来るのでしょう。阪神淡路大震災の直後に神戸に行ったことがありまして(東日本では、まだそういうことはしていません)、大阪から神戸に向かうと、だんだんに屋根にブルーシートがかぶさりだしてきた、神戸市役所もつぶれた、道に切れ目が入っている、その他ほんと唖然とした記憶があります。絶句とはこのことです。地震がある数日前に神戸を訪れていたので、この地震に遭遇する可能性も空想次元ではありませんでした。

まとまりのない文章になりましたが、読者の皆さまもあらためて、この地震でお亡くなりになった方々への追悼をお願いいたします。


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1 コメント

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Unknown (アンドリュー・バルトフェルド)
2021-03-11 21:49:18
>2011年3月11日
停電になったので即ブレーカーを切り、逃げ道の確保に走ったことを覚えています。
仕事にならないので、定時までラジオを聞いて何が起きたのかを知ることになりました。

数日間は店に物がすっかりと無くなる様を見て青くなりました。
今で言うとコロナ禍でマスクや消毒液などが売り切れたこと以上の恐怖に感じました。
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