Drマサ非公認ブログ

社会はとっくに壊れていますかねえ

 ひろゆきさんが沖縄辺野古での座り込みを揶揄して、ちょっとした炎上状態のようだ。まあでも、当の本人はどこ吹く風なのでしょうね。ひろゆきさんって人はそんな感じなんでしょうか。会った事もないので、知りませんが。

 僕はなんだか非社会性を読み解いてしまいます。非社会性については、何度も取り上げましたが、自然な感情を持っていないという事です。自然とは当たり前という意味です。あら、でも、ひろゆきさんにかかったら、自然な感情って人それぞれでしょう、定義は?などと指摘されるのでしょうか。

 だから、そういう指摘をしてしまうところが自然な感情、当たり前の感情から離れていると言っても、まあ納得してもらえないのかもしれません。

 加藤諦三によれば、人と人とのコミュニケーションの中から生まれてくるのが、当たり前の感情です。だから、人と人とのコミュニケーションがないままに成長すると、育たないという。 

 加藤先生はこんな例をあげている。「殺すのは誰でもよかった」。

 殺人が「よくない」という当たり前の感情が育たなかったというのは、人とのコミュニケーションが崩壊したところに生まれる。他者の心を理解しようとしない。ということでしょう。心の理論を説明したいところです。

 話を戻すと、沖縄の人が座り込みをして抗議を行っている。そこには沖縄、本土、米国などが絡み合いながら作られた歴史があり、それらが座り込みという行為になっているその人物や多くの沖縄の人、そして彼らと思いを同じくする人たちの複雑な思いがある。

 そういう人の心に頭が回らない。コミュニケーションできない。

 そういえば、選挙で辺野古推進の方が勝ったとかいう認識を示していたようですが、それ自体が間違い。ちゃんと調べたらいいし、これまでの辺野古をめぐる、米軍駐留をめぐる、米軍の蛮行をめぐる歴史的蓄積を上っ面の知識で上書きすることなどできないでしょう。

 沖縄の人びとの思いに対して、当たり前の感情があれば、座り込みを定義の問題にズラしたり、その場所で馬鹿な写真を撮って拡散などできません。

 ついでに、N国党のガーシーという人物が国会には出れないと言っているらしい。国会議員になったら、国会に出るのは常識である。仮に違法ではないとしても、国会に出席しないのは非社会的行為です。非社会性です。

 そういうのが多くなっている。そんな気がする。なぜなら、そういう非社会性の人物に一部人気があるから。

 法的に問題ないとの主張が、いつの間にか常識を壊す社会。すでにそれは社会が壊れているのだろう。法の前に、道徳や常識があって、それらが社会(意識)を作っている。これら道徳や常識でうまくいかないから、そこで法律が出てくるのであって、法律は先ではない。

 僕だって、沖縄の問題に対して、なんら行動を起こしているわけでもなく、口先だけです。僕が国会の前で座り込みしてもいいのだから。ただ沖縄の人に申し訳ない気持ちを持っている。

 このような沖縄の人々への思いを持つ者と、そうではない人物はやっぱり違うとも思う。

 

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