Drマサ非公認ブログ

「人間」と「人」は違う

 「人間」から「間(あいだ)」を取ると、「人」になります。

 ですから「人」に「間」がありません。「間」とはなんでしょうか?通常関係性とでも解されます。あるいは、つながりでしょうか。とすると、次のような理解に至ります。「人」はつながりを欠いている。

「間」を空間と理解してしまいますが、そうではありません。その「間」には心理的なつながり、社会的なつながり、倫理的なつながりなどがあるのです。経済的つながりもあります。これは「金の切れ目が縁の切れ目」です。

「間」を空間とすると、「人」と「人」に空間だけがあるかのように思えてしまいますが、それらつながりでびっしり埋まっているのです。

 つながりは最近は「絆」と言う言葉で表現されることが多いように思います。しかしながら、残念ながら社会から孤立していく人が多くなっていると思います。

 コロナ禍で自殺者が増えているのは、その現れでしょう。特に女性の自殺が増えているということは、女性がつながっていた「なにがしか」が失われる機会にコロナがなったということが想像できます。あるいはどうにかつながっていて、ギリギリ保ってきた「なにがしか」が失われたということです。そそもそもギリギリ保っていた状況になっていること自体がおかしい。

 自殺した当事者がおかしいのではなくて、自殺者を作り出す状況を作り出す共同性や社会がおかしい。彼女たちに手を貸すことができないのですから。この手を貸すことができる状態とは「間」があることです。

 哲学者の和辻哲郎は実在を「間」であると言います。「人」は人と人の「間」でこそ生かされつつ生きている、そうなって「人間」であるわけです。ですから「人」は誰かと繋がらなければ「人間」になれないのです。

 そもそも一人で生まれてくることはあり得ませんから、誰かの手を借りていますから、初めから「人間」です。

 そんなことを言うが、現に「人」でも生きているだろうと反論されることがあります。通常「人」から見てしまうと、近代化と共に発達した「個人主義」が発達したとなります。そのため「間」を考えなくなったとも、近代批判になります。そもそも「人」が後です。

 これは「人間」が「人」に堕落したということです。その堕落の現象として、現れとして、自殺が位置付けられるのです。そこで「人」に残るのは快不快だけです。「人」は快を与える「人」か、不快を与える「人」かどうかをモニタリングして生きます。快を良きこととして生きる「人」になります。不快な出来事には目を向けないようになります。

 日本社会では悲惨な出来事が起こり続けました。3.11と福島原発事故、経済的不調、自然災害、そして新型コロナウィルスなど。ちなみに福島原発事故はいまだ続いています。

 これらは「人」にとっては不快を感じさせます。そんなことは知りたくないと。ですから、そういう悲惨な出来事の事実よりも、そのような事実の中でも「快」を得られる出来事は受け入れやすいのです。そこで、ちょっといい話が取り上げられたりするのです。ちなみにマス・メディアでは、そういうニュアンスがある記事をエクボ記事と言います。

 しかしながら「間」を大切にするには、そういう悲惨な出来事の中で生きる人間の苦しみを共有することです。福島原発事故で故郷を失った方と思い、経済的不調の中で生活が困難になっている方の思いや苦闘、コロナで亡くなった方やそのご家族の無念。

 こういう苦しみを共有することを「共苦compassion」と言います。ちなみに「compassion」は「思いやり」と訳されることが普通です。僕たちの社会は「思いやり」を忘れたと言うことがありますが。それは「生きることの中にある苦しみ」を感受する力を失ったと言うことです。

 今日の日本社会における根源的な禍はコロナではありません。自分と他者の「間」を見失い、それを受容する力を失った「人」が原因です。

 人の苦しみこそを共有することが「人間」です。

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