日本の幸福度はOECDの中で世界ランク最下位、ちなみに56位。以前はもう少し下だったという記憶も。子供の幸福度もOECD40数ヶ国の中で下から2位。いわゆる経済指標ではなく、社会指標である。
多々要因はあるのだろうが、社会ということはつまりは共同性や仲間指数。その内実は、ここでは取り上げない。なかなか説明困難だと思うし、説明しても理解されないという経験ばかり。「何言ってるんだろう?」という反応。
高校生の社会指標で「自分には価値がある」という自己肯定感も低い。自己評価が異常に低い。
親との関係、これは親のことを尊重するとか、言うことを聞くとかいうのも、世界最悪。日本人は親をなんとも思わないということだ。これは家族の空洞化。
夫婦関係は愛情で結びついていない。損得でしかないというデータもある。そりゃ、そんな夫婦関係の中に子供が生まれたら、その子供がどのような価値観を持つのかは明白だし、幸せなはずはない。もちろん、その夫婦も幸せなはずはない。ということで、日本終了。損得マシーンと化す日本人。
僕は共同性が空洞化しているとか、社会の喪失ということと繋げて考えている。
で、カナダに行って感じたことと日本を比較してみる。喫茶店の風景で。
日本で喫茶店に入る。よくあるチェーン店。妻や友人と入ることも多い。そういう時は無駄なおしゃべりをしたり、ちょっとした打ち合わせをしたりする。気の会う友人との会話は楽しい。ただ1人で行くのも多い。そういう時は読書タイム。
そんな時は周りを見渡している。日本の喫茶店では大半は1人で来る客。そこで勉強したり、スマホ眺めたり、本を読んでいる。おしゃべりに興じるという風景ではない。つまりは日本の喫茶店はボッチのためにある。よく見ると、皆壁側に座って整然としている。
このような風景を意識してしまうと、なんだかゾッとしてしまう。喫茶店の客は孤立して存在している。喫茶店という空間と飲食をサービスとして享受しているのだが、その基本は1人過ごすためにある。そういう道具になっているのがサービスとしての喫茶店。
ところが、今回カナダでも喫茶店に何度も行った。そこで1人で過ごす人はほんの一握り。どう見ても夫婦や家族、それと友人であろう。オフィスの多いところでは仕事仲間。そこで彼ら彼女は何をしているのかというと、もちろん喫茶店という空間と飲食を享受している。
しかしながら、ワイワイ賑やかだ。そうおしゃべりを楽しんでいる。そこにブラッと人が現れると、顔見知りのようで、おしゃべりに加わる。ここはおしゃべりというコンサマトリーな空間なのであって、ボッチのためのちょっとした癒し空間ではない。友愛の、あるいは性愛(恋人)の関係を育む空間なのである。
こういう行為が埋め込まれていること、そしてそれが当然のことであることで意識化することもない。そこに社会が発見できる。
日本は孤立、カナダは共同(連帯)、その違いが喫茶店の風景の比較からも感じてしまう。「なるほど」と思ってもらえるかどうかはわからない。しかしながら、この風景のようなミクロな社会から、先にあげた社会指標につながりがある、あるいは重なっていると確信している。
社会とは共同という意味を内包している。孤立しているなら、孤立という社会的ポジションから社会を眺める(観察する)しかない。そこで見える風景が社会指標に表れている。
日本の喫茶店では、社会を発見できない。それが日本の現状。