伝説のみぃーちゃんとは師弟の関係もありましたが、その前に一人の友人でもありました。
そんな友人とのある日遊びの思い出を紹介します。
近所の女の子達とばかり遊んでいることが多かったのですが、時々私が釣り好きなことを知って、近所の川に釣りに2人で出かけました。
きまって駄菓子屋で飴とジュースを買い、近所で餌のミミズを掘って、すぐ目の前の川に行き、のんびり日が暮れるまで二人で色々な夢を語りながら過ごしました。
今考えると彼に勝っていたのは釣りだけかもしれません。
大きな“たらい”を持って、そこに釣った鮒を入れて最後に川にリリースする。
水に漂う鮒を見ていると心が落ち着くようでした。
鮒釣りは春から秋まで週に1回程度だったかなぁと思います。
稀に小さな鯉が釣れたり、雨上がりの後はそこそこの鯰が釣れたりするときもあり、その時だけは格闘さながらでした。
この大きな“勲章”を手に二人で自慢したこともありました。
水槽に入れてた“勲章”が、親戚のおばちゃんに持っていかれて天ぷらのネタにされた時は物凄くショックでした。
猫にやられたときもです。
でも本当の鯉の大きさを初めて知ったときは愕然としました。
こんなのが「あるところ」に普通にいました。
1mを超えるなんてバケモノ過ぎるし、70cmが平均で、釣った人に聞けば竿が折られる、強烈な引きで体が持っていかれること等、まさに格闘でそれ自体が武勇伝なのです。
私とみぃーちゃんは井戸の中に置かれていることを知り、外に大海があることを知ります。
そんな事実からなのか、この鮒釣りは小学卒業までにやめ、みぃーちゃんを含めて何人かで海に出かけることが多くなりました。
それが今日の釣りという趣味のひとつになっています。
そんな私も鮒釣りは気付けば卒業していました。
ルアーフィッシング、フライフィッシングをメインとしている今があります。
でも、鮒釣りをやめたのはなぜなのか、その理由がはっきり分からないような気がします。
魚の大きさも理由のひとつとしてあるのですが、それがすべてではないのです。どちらかというともっと知りたいと言う願望なのかもしれません。
生まれた故郷を遠くはなれたことが理由なのか、何かがそうさせたのか。
一般河川で釣れる鮒は大きくても30cmくらいで、平均は15cmほどでした。
顔は穏やかで、田舎に和んだ地味な銀色または金色の単色です。
でも、渓流に生息する岩魚、ヤマメは観賞魚のような美しさ、精悍な顔つきで“煌びやか”でした。
海水魚も大海原で生きているため精悍であり、釣ったときの手に伝わる引きの感触は素晴らしいものでした。
「鮒にはじまり、鮒におわる」という言葉があります。
子供の時に近くで釣りをすると「鮒」で、成人すると遠くに出かけて様々な魚と出会うものの、老人になったとき体が言うことをきかず、最終的には近くの川にいる「鮒」戻る。
つまり釣りは奥深いもの、原点回帰という事としての理解をしていますがどうなのでしょうか。
※真ブナ(入門)=始まり、ヘラブナ(真骨頂)=終わりとした、技術的な要素としての考え方もあるようです。
少なくとも、技術的な要素として受け止めるべき言葉ではないと今は確信しています。
夏が終わるのと同じように物事は永遠には続かないような意味としても受け取れますし、季節の移り変わりについて自然を忘れないず大切にすることの意味としても受け取れます。
本当のところの意味は奥深すぎて、凡才な私にはまだまだ理解できるのは先のようです。
今を大切にすることも大事なのですが、今を“無心”で楽しむことが大事なのかもしれません。
夏の終わりの“何の変化も無い平凡な遊び”のお話でした。
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