久しぶりに、パン作り教室へ
しかし、ジャムパンを作って以来なので
本当に久しぶりで、3カ月ぶりくらいかしら?
で、本日は
食パンです。一斤なので二人で食べるのに丁度いい量
明日のお昼はトーストサンドだな。うふふ
ところで、一斤の重さは450gで、作るときに多少の誤差が出るので規定では340グラム以上あればいいのだそうです
一斤=450g???
ちょっと変ですよねぇ
尺貫法での重量単位だと1斤は約660グラム。
随分少ないじゃないかと・・・
これは
最初、食パンの焼き型はアメリカやイギリスから輸入しており、これで作った食パンが一般的に流通し
この食パンの重さは約1ポンド(約450グラム)で、
ポンドは漢字で表記すると「听」になりますが、
たぶんこの漢字「欣」が「斤」と混同されてしまったのだろうということです
山形のこのパン。
その昔、画家がデッサンのときに消しゴムの代わりに使っていたので「消しパン」と区別するために「食パン」と呼ばれたというような説もあるようですが
正確には、主食にするパン
と、いうことで「食パン」と名付けられたそうです
もともとはイギリスで作られた、山形のパンでしたが、アメリカに渡った時に、効率よく積み重ねられるように、
真四角な形に焼きあげるようになったらしいです
一寸、豆知識
◆江川太郎左衛門のパン◆
江戸後期になると、軍事上の必要性からパン食が再び見直されるようになります。なぜなら、米のように水を必要とせず、保存性も高いからです。
江戸時代後期の韮山(現在の伊豆の国市)の代官だった江川太郎左衛門英竜は、長崎帰りのパン職人・作太郎の力を借りて、1842年4月12日に日本独自の軍用パンを作り上げます。それを記念して、今も4月12日は「パンの日」に設定されています。
このパンは現在のフランスパンに似た、かなり堅くてパサパサしたタイプだったそうですが、飽きの来ない味で長期保存に耐えます。形はドーナッツ型だったそうで、飯盒のように腰にヒモでぶら下げて持ち歩きました。
このパンは、まず江川自身が主宰する軍学塾「江川塾」だけで使われておりましたが、その機動性や保存性が注目され、薩摩藩や水戸藩、そして幕府の正式なレーション(軍用食糧)のひとつとして採用されました。大政奉還後に勃発した戊辰戦争では、あちこちでこの固いパンを食べる姿が見られたと思われます。
その後、明治維新を迎え、西洋風の本格的なパンが入ってくるにつれ、この「日本風」のパンは廃れていきますが、近年になって江川の地元(静岡県伊豆の国市)で再現され、「パン祖のパン」としてお土産として買えるようになっています。もっとも、実際に食べた人の話では「煎餅など比べものにならないほどの堅さ」だそうですが……。
伊豆へ行くことがあれば、一度お土産に購入してはいかがでしょうか?かなり日持ちするそうですw
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しかし、ジャムパンを作って以来なので
本当に久しぶりで、3カ月ぶりくらいかしら?
で、本日は
食パンです。一斤なので二人で食べるのに丁度いい量
明日のお昼はトーストサンドだな。うふふ
ところで、一斤の重さは450gで、作るときに多少の誤差が出るので規定では340グラム以上あればいいのだそうです
一斤=450g???
ちょっと変ですよねぇ
尺貫法での重量単位だと1斤は約660グラム。
随分少ないじゃないかと・・・
これは
最初、食パンの焼き型はアメリカやイギリスから輸入しており、これで作った食パンが一般的に流通し
この食パンの重さは約1ポンド(約450グラム)で、
ポンドは漢字で表記すると「听」になりますが、
たぶんこの漢字「欣」が「斤」と混同されてしまったのだろうということです
山形のこのパン。
その昔、画家がデッサンのときに消しゴムの代わりに使っていたので「消しパン」と区別するために「食パン」と呼ばれたというような説もあるようですが
正確には、主食にするパン
と、いうことで「食パン」と名付けられたそうです
もともとはイギリスで作られた、山形のパンでしたが、アメリカに渡った時に、効率よく積み重ねられるように、
真四角な形に焼きあげるようになったらしいです
一寸、豆知識
◆江川太郎左衛門のパン◆
江戸後期になると、軍事上の必要性からパン食が再び見直されるようになります。なぜなら、米のように水を必要とせず、保存性も高いからです。
江戸時代後期の韮山(現在の伊豆の国市)の代官だった江川太郎左衛門英竜は、長崎帰りのパン職人・作太郎の力を借りて、1842年4月12日に日本独自の軍用パンを作り上げます。それを記念して、今も4月12日は「パンの日」に設定されています。
このパンは現在のフランスパンに似た、かなり堅くてパサパサしたタイプだったそうですが、飽きの来ない味で長期保存に耐えます。形はドーナッツ型だったそうで、飯盒のように腰にヒモでぶら下げて持ち歩きました。
このパンは、まず江川自身が主宰する軍学塾「江川塾」だけで使われておりましたが、その機動性や保存性が注目され、薩摩藩や水戸藩、そして幕府の正式なレーション(軍用食糧)のひとつとして採用されました。大政奉還後に勃発した戊辰戦争では、あちこちでこの固いパンを食べる姿が見られたと思われます。
その後、明治維新を迎え、西洋風の本格的なパンが入ってくるにつれ、この「日本風」のパンは廃れていきますが、近年になって江川の地元(静岡県伊豆の国市)で再現され、「パン祖のパン」としてお土産として買えるようになっています。もっとも、実際に食べた人の話では「煎餅など比べものにならないほどの堅さ」だそうですが……。
伊豆へ行くことがあれば、一度お土産に購入してはいかがでしょうか?かなり日持ちするそうですw
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