【4】へ
堂上の部屋に初めて通された郁は、無礼に当たらない程度に中の様子を窺った。
へえ、こんななんだ。教官の私室って。
こういうつくりなんだな。個室っていいなあ。
……シンプルだけど雑貨とかいい色合いのを使ってるなあ。モノトーンでも暗くならないのがセンスいい。
こういう本読むんだ。へえ。
と、そこへ、がちゃりとドアが開いて堂上が戻ってくる。
部屋の真ん中に立っている郁を見るなり、眉をひそめた。
「寝てろって言っただろ。なんでそんなとこに突っ立ってる」
「だ、だって」
教官のベッドでなんて、畏れ多くて寝れません……。郁は眉を八の字に下げてへどもどした。
「いいから寝ろ。そんで咥えろ。体温計だ」
郁をベッドに押し込んで、有無を言わさず布団をかぶせる。そして電子体温計を手渡した。
「寮母さんの管理室から勝手に借りてきた。無人だったから。あとで返しておく」
「ありがとうございます」
郁は堂上の布団に顔半分埋めて、くぐもった声で言った。おとなしく体温計を口に入れながら。
ほんとは、小牧が自分用のを持っていて、それを借りるつもりだったんだが。内心、堂上は付け足す。
小牧の部屋の前まで行ったんだが、なんとも、その、取り込み中みたいな音がしたから……。
引き返さざるを得なかった。玄関脇の管理室まで足を伸ばした。
堂上は頭を掻く。なんとも、当てられたな。
そういや巷はクリスマスイブだった。恋人たちの夜か。
二人きりになると、個室というのがいやでも意識されて、郁はどきどきした。こんなんじゃ、熱が更に上がっちゃう。落ち着け自分、と言い聞かせていたところでピピピと計温終了を電子音が告げる。
郁が体温を見るより先に、堂上がそれを取り上げた。
デジタル表示を見て、
「三八度五分……」
ぼそりと呟く。
「え、そんなにあります」
郁は目を丸くした。
「そんなにあります、かじゃない。お前、自覚なさすぎだぞ。一体なんだってこんなになるまで黙ってた」
慌てた様子で早口でまくしたてる。予想外に熱が高く、あせった。
郁はますます掛け布団に顔を埋める。堂上に叱られるのはある意味高熱よりも辛い。
「だ、だって全然。……朝は普通だったし」
「普通だったわけないだろうが。ああもう。分かった。今冷えピタとイオン水出してやる。ちょっと待ってろ」
堂上は言って、部屋に置いてある一人暮らし用の冷蔵庫から常備しているポカリと熱さましシートを取り出した。風邪薬はないが、解熱剤なら常備してある。それも取り出す。
「これをデコに貼れ。あと、薬も飲め。お前、成人だよな」
「当たり前です」
「じゃあ二錠だ。ポカリでいいか」
「大丈夫です」
「ほら、封切ってあるから零すなよ」
かいがいしく郁の世話をしながら、そうだと思いつく。
「管理室に行って氷枕借りてくる。あと何か欲しいものは? コンビニとかで調達してやるぞ」
またドアから出て行きそうな気配。郁はそこで布団から顔を出した。ひたと堂上に視線を据える。
手を伸ばし、彼の白衣の裾をはっしと掴んだ。
「行っちゃうの。教官。行かないで」
ここにいてください。
堂上はうろたえた様子でベッドの郁を見下ろす。
「でも、行かないと、必要なものが」
「全部足りてます。必要なものは。だから、今は一人にしないで、……ください」
郁の声は尻すぼみになる。急に気恥ずかしさが襲ってきた。
心細い。どんどん身体がしんどくなる。呼吸するのが苦しい。
だから体温とか計るのいやだったのよ。だって熱があるって事実が分かると、身体がそれにあわせちゃうんだもん。
郁は目を閉じた。そうすると少しは楽だ。でも白衣を掴む手は離さない。
傍にいてほしい。
その台詞は飲み込んだ。熱に浮かされているとはいえ、あまりに甘すぎると思ったから。
まるで恋人にねだるみたいに。
堂上はむっすりと黙っていたが、やがて肩の力を抜いてすとんとベッドの端に腰をおろした。軽く体重を預ける。
白衣を摘む郁の手に、ぽんと手を重ねた。
「分かった。行かない。だから少し眠れ」
「……でも、あたしがここ占領したら、教官はどこで寝るんです」
そう言うと、堂上は苦笑した。
「俺の心配より今は自分の心配をしろ。いい子だから」
「……はい」
郁は息を吸った。胸が上下し、呼吸がゆっくりとしたものになる。
不思議。
さっきは二人きりになって気詰まりだったのに、今はここにいてくれるのがこんなに心強い。安心できる。
教官って不思議だな……。
怖いのに、あったかい。
「傍にいるから」
堂上は囁いた。
そして郁の額に掛かった前髪を軽くなぜた。指先に当たる冷えピタが痛々しい。
彼女が眠りに落ちるまで、ずっとそうやっていた。
「それでは毎年恒例のビンゴ大会を実施しまーす! はいはい、カード配るから順番に並んで」
階下から、マイクを通した司会の声が聞こえてくる。
わいわいがやがやという人々のさざめきも。どうやらパーティーも佳境に入ったらしい。
それを手塚は柴崎の部屋で聞いていた。詳しく言うのなら、柴崎と郁の二人部屋の中で。
多少、途方に暮れながら。
なんで俺は、ここにいるんだ。
「……なんで自分はこんなとこにいるんだって、今自問してるでしょう」
柴崎はマントの後ろに髪を流しながらそう言った。
手塚は図星のため、「い、いや。そんなことは」と口ごもった。
「悪かったわね、急にあたしの部屋まで来てだなんて言って。それもあんな取り込みの最中に」
柴崎の言う取り込みが、血を吸われるデモンストレーションのことだというのは分かっている。
「お前が言うから、そのとおり剣を抜いて追っかける演技をしたけど、ほんと、よかったのかこれで」
俺がここにいたらまずいだろ。暗にそのことを心配している。
いくら今夜だけは男女の行き来が大目に見てもらえるといっても。女子寮の私室に二人きりというのはなんとも……。
もし誰かに見つかったら言い訳できない状況だ。
しかし柴崎は余裕の笑みを見せた。
「笠原のことを心配してるの? 大丈夫よあの子は。さっきメールしたら、今別の部屋にいるって返信あったから」
「別の部屋?」
それが堂上教官の部屋であることは、郁は伏せているが柴崎にはお見通しだ。二人が連れ立って会場を出て行くのをしっかりと確認済み。
「ん。なんか熱出して別所で看病受けてるって。そういや一日ほっぺた赤かったもんね。てっきり今夜のパーティーのことで興奮してるものだとばかり思ってた」
気づいてやれなくて悪いことしたわと言いつつ、でも逆に風邪に感謝なのかな、と思いなおす。だって、いとしの教官の看病なんだもんね。あのじれじれの二人が一気に急接近するチャンスじゃない? これって。
自分たちのことはまったく棚に上げてそんな風に思う。
「大丈夫なのか。あいつが熱だなんて珍しい」
手塚も気遣わしげだ。
「鬼の霍乱よね。まあ、笠原は鬼っていうか、今日はナースなんだけど、看護師さんが熱出してちゃだめよねえ」
「ナースだったか。あいつの仮装」
「あら、あんなに笠原に似合ってたのに、あんた、見てなかったの、ちゃんと」
しっかりしてよね、あたしの見立てなのに全部、と気を悪くしたように腰に両手を当てた。
手塚は口を噤んだ。そしてしばらくして顔を上げ、
「俺、お前しか見てなかったから……」
とだけ言った。
柴崎は口を閉じる。無言になった。
階下からかしましい声が聞こえてくる。
「えーと、25番、25番です!」
「あ、リーチリーチ!」
「俺も!」
にぎやかに、楽しげに。
ビンゴ大会に興ずる声。それをBGMに聞きながら、二人は視線を合わせずに微妙な距離を置いて部屋の中立っている。
夜が濃度をじわりと増していく。
「……ごめんね、汚しちゃったわね、それ」
ふと目について柴崎が口を開いた。
手塚は彼女の視線を追って、自分の着ているシャツの前身ごろを見下ろす。
鮮血で染まっている。ボタンの辺りが。
「借り物なんだぞ、これ」
手塚は血に染まったところを指で触ってみる。と余計に広がったのでああ、と声を上げた。下手に手をつけるとまずい。
「お前、本気で噛むなよな。痛いんだぞ」
「ごめん。悪かったわ。なんか、ムカッと来ちゃって」
手塚が女に囲まれていたこととか、自分をアイドルとか気安く抜かす連中とか。
複合技で、頭に血が昇った。で、気がついたら噛み付いていた。本気で、がぶっと。
野良犬みたいね、と自嘲する。何がアイドルよ。こんな自分の気持ちもコントロールできない女が。
愛想笑いを忘れた時点で、アイドルの資格なんかないっての。
血を流す手塚を見て申し訳ない気持ちでいっぱいになった。傷口も痛々しい。
柴崎は言った。
「ねえ、……脱いで」
「え?」
「それ、脱いでよ。洗うから。血ってね、すぐに洗わないと染みになっちゃうのよ。それに洗い方も割と難しいの」
あたしがやるわ。と手を差し出す。
「脱げって、そんな。ここでか」
辺りを気にする。いや、他に誰もいないし郁も当分は帰ってこないことも分かっていたのだが。
柴崎は差し出した手を更に突きつけてきた。
「お願い、貸してよ。謝ってんのよこれでも。察して」
うつむいてそう言う柴崎を見ていたら、手塚は従うしかなかった。
シャツの前ボタンを外す。ゆっくりと上からひとつずつ。
前を肌蹴て腕から袖を抜いた。上半身裸になって、シャツを渡す。
柴崎は手塚の裸体を見てもまつげひとつ動かさず、それを受け取った。代わりに自分のマントをするりと外して彼に手渡す。
「洗ってくるまでこれでも羽織ってて。あいにくこの部屋にはあんたに合うサイズの服がないの」
じゃあ、少し外すからここにいて。
そう言って柴崎は部屋を出て行った。
後に残された手塚は漆黒のマントを手にしながら肩をすくめた。
ちえ。少し動揺とか見せろよな、たまには。
こちとらヌード晒してんだからさ。上半身だけだけど。
面白くない気分で窓の外に目をやる。と、思わず「あ」と声が出た。
雪だ。
今年の初雪が、空からひらひらと舞い降りてきていた。
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