「手を離せ。気安く触らないでくれ」
俺は、二人の間に割って入った。自然、身体を滑り込ませるように。
アルフィンが息を呑んで俺を見る。スタイリストの男の手が離れたのをいいことに、俺は彼女を自分の背後に隠すようにした。
「--うちのクルーに」
付け足しみたいに言い添えた。いや、明らかに後付けと分かる台詞だ。
自覚が後追いでやってきて、汗が出そうになる。
スタイリストはいきなりチームリーダーが出てきて牽制をされたため、うろたえた。「これは失礼しました」と後ずさった。俺とアルフィンを交互に見やり、
「でも、撮影再開の前にはもう一度ヘアセットさせてくださいね」
そう言って、辛うじて仕事の体裁を保ってその場を離れた。
「……」
「……」
気まずい沈黙が俺たちのあいだに降ってくる。
ああ。またこれか、と俺は気が重くなる。なんともいたたまれない。
と、思っていたら、タキシードの後ろの裾のところをくい、と引かれた。
肩越しに振り返ると、アルフィンが俺の服を掴んでいる。
あっ、と俺の動きが止まる。
アルフィンは伏し目がちに「あの、ありがとう。困ってたの、助けてくれて」と礼を言った。
「いや……。べつに」
だめだ。可愛い。デレる……。
ドレス姿も結い上げてアップした髪も可愛い。普段はしない化粧も肌に載せているせいか、いつもより3割増しで可愛い……。
いや、不埒な思いを抱いていると知られては、せっかく彼女の方から話しかけてきてくれたのを、シャットアウトしてしまうことになりかねん。俺は想いを封じるみたいに腕組みをして、前に視線を据えた。
アルフィンは俺の裾を掴んだままで、「あの、ジョウ。ずっと、ごめんね。ーーあたし、あなたに謝らなくちゃって思ってたんだけど」と続けた。
「何を?」
声だけで返す。
「そのう……、色々」
「いろいろ?」
「これまでの、態度とか、あの晩、部屋から逃げちゃったこととか」
逃げるというパワーワードが俺にダメージを食わす。ーーう。
本人の口から聞くと、けっこうクるものがあるな。
「自覚、あるんだ」
つい、うっかり――いや、意図的に、あてこすりを俺は言ってしまう。
アルフィンはう、とそこで詰まった。
「ある……ごめん」
背中から聞こえるアルフィンの声は消え入りそうだった。
罪悪感が胸に迫る。いや、と俺は首を振って言った。
「俺も、なんかごめん。初手からしくじったと思ってる。すまん」
「しくじる?」
「……いきなりキスとか。……して」
言うと、照れくささが足元からじわじわ込み上がってきて、やばかった。
アルフィンもそれが感染ったのか、少し黙り込んだ。服をさらに掴む手に力を込めて、
「あのね、キスが嫌だったわけじゃないのよ」
そう囁いた。
「じゃあ何が?」
嫌だったんだと、訊いてしまう。いいじゃないか今日はこの辺で。折角アルフィンのほうから話しかけてくれたのに。ささやかだけど大事な一歩だ、とどうして思い止まれない。
自分を呪いたくなる。でも口にした言葉は、取り返せない。
アルフィンは、訊き返されたことに驚いたみたいに、逡巡を見せた。
数十秒、ためらったのち、
「それは、」
と低声が聞こえた。それから、とんと背骨に何かが当たった。
アルフィンのおでこだ、と気づいた時には、彼女の腕が回され俺の腰を抱き締めた。ごく緩い力で。背後からハグをされる。
身体を密着させてよいものかどうか、迷いを感じる抱擁だった。
「……」
俺は驚いたのと、カメラクルーやタロスたちが向こうで撮影再開のタイミングを見計らっているのが見えていたので、棒立ちになった。みんなが見ている公衆の面前でアルフィンから抱きついてくるなんて、予想だにしていなかった。
嬉しいという気持ちを、様々な要因がしのいでいた。
「アルフィン……」
「ごめん、ジョウ。……好き」
アルフィンの声はくぐもっていた。泣いているのかと思った。
「あなたが好きなの。信じて、ーーでも、あたし、……あたしね」
俺の腹の前に回された彼女の手にぎゅっと力が籠る。
俺は全神経を背中に集中していた。みんなが驚き顔でこっちを見てる。エギルも、リッキーと肩を小突き合っている。どこからかひゅう、とからかいの口笛が聞こえた気がする。でも、もうそんなのは気にならなかった。
「……事故に遭う前のあなたのことも、大好きなの」
アルフィンの声でタキシードの背中の部分が、湿っていた。
あたしは混乱していた。
パウダールームにいったん引き取って、例のスタイリストさんが髪を整えなおしてくれた。何か彼が話しかけてきたけれども、あたしは上の空だった。生返事をしていると気づいたのか、その人は仕舞いには実務的な作業だけをてきぱきして部屋を出ていった。
ドレッサーの鏡に映る自分にあたしは問いかける。
あたしってば、いま、ジョウになんて言った? あたしは自分の頬を手でなぞる。今日は特別きれいに着飾っていて、プロの手で化粧を施されていて、自分が自分じゃないみたいに見える。
いまあたし、ジョウに縋って、とんでもないこと口走っていたような気がする。
事故に遭う前のあなたのことも、大好き……。
思い出すだけで赤くなる。心臓の鼓動がまだ早い。冷や汗が出そう、恥ずかしくて……。
でも同時に、そうだったのか、そうだったんだという理解が緩やかに降ってくる。
空から白い雪片がゆらゆら舞い落ちるみたいに。その雪がうっすらと地面に積るのをしずかに見守るみたいな、そういう理解の仕方だった。
だから、苦しかったんだ、あたし。
あの晩、ジョウに不意に抱きしめられてキスをねだられ、唇を重ねたとき、心の奥底でこいねがったのは、事故の前のジョウに会いたいということだった。
あたしを丁重に扱って、丁重すぎて頭でっかちで怒りっぽくなるぐらい、生真面目だった彼に。自制をしていたであろうジョウに。おそらく、ピザンの王女を自分の元へ迎え入れたという意識が常にあって、あたしと一線を踏み越えることへの躊躇がたえずあった彼に。
そのくせ、あたしに向けられる視線は蕩けそうに甘く、優しかった、あの彼に会いたいと、色んなしがらみを軽々跳び越えてあたしにキスをねだるジョウに抱きしめられながら、あたしは思っていた。だから、あんなに苦しかった。切なかった。涙が勝手にあふれた。
そんなもろもろのことが、彼の背に額を押し当てたとき、わかった。ようやく……。
自分が無茶苦茶を言っているのはわかっている。今の目の前にいるジョウには何の罪もない。むしろ、ドックファイトで頭を負傷した被害者。だいいち元の彼といまの彼は同一人物なんだから。元のあなたも好きとか……滅茶苦茶言ってるわあたし。混乱がひどい。
「アルフィンさん。すみません急いでください、撮影始まりますよー」
ドアの向こうから、呼ばれた。カメラ助手さんの声。
「はあい」
慌てて返事をして、鏡の前から離れる。急ぎ、スタジオに向かう。
ドレスの裾が長くて走るのが邪魔だわ。ピンヒールも。あたしはそれを捌きながら、カメラマンやジョウ達が待つところへ駆けていく。
ジョウはなんだか面はゆいような、照れを隠したいような、複雑な面持ちでこっちを見ている。エギルさんたちと談笑しているのだけれど、視線はあたしを捉えていて逸らさない。また、あたしの胸がどきんと鳴った。
自分が混乱しているのはわかった。でも、この混乱を、ジョウなら困った顔をしながらも、しようながいなと言って一緒に理解しようとしてくれるんじゃないかしら。これは、甘え? それとも楽観的観測?
自分に都合よく解釈しようとしているのかもしれない。けれど、いまあたしを見つめる彼の目を見ていたら、なんだか……もっと速く駆けて行きたくなった。
ジョウの許へ。
ーーとそこで、あたしの行く手の左側。うわ手からあっ!と大きな声が聞こえた。上方で作業していた人の声だろうか、
「すみません! キャットウオークの橋げた!堕ちる」
下、避けて!と怒声が聞こえて。きゃあっとスタジオにいた女のスタッフさんの悲鳴が上がって。
避ける間もなく、黒い鉄骨があたしの視界をよぎった。
(11)へ
現地に行けずに無念です。マンサイボレロも、SEIMEIも最高~凄い寒いはず。利府のグランディ21 山の上にあります。どうか演者のみなさまが、怪我なく無事に公演を終えられますように。
連載も終わってほっとしてます。色んなラストが考えられる中で、この結末でした。お楽しみくだされば幸いです。
ようやく雪解け…ってところで、待て!次号!が出ましたよ!
今週末はきっとゆづ三昧ですねー。どうぞ良い週末を。