いつ、会話が止んでいたのか。
気がつくとジョウは至近距離でアルフィンの瞳に見入っていた。
いや、魅入られていた。
とにかく、彼はアルフィンの双眸に視線を奪われていた。じっと見ていると深海の底にでも吸い込まれたような錯覚さえ覚える、深い深い碧が彼を包み込む。ジョウは、その色に浸されていたいという想いに、静かに捉われていった。
アルフィンは、ジョウの目の奥でアンバーの光彩が渦巻くのを見た。
森の湖面に立ち込める朝霧のように、抑えようとしても抑え切れない欲望のかぎろいが過ぎる。
心臓が不規則に鼓動を狂わせ始める。彼に見つめられると、瞬きさえも自分の自由にならない。
強いまなざしに、呼吸(いき)もできない。
ジョウが、わずか身を起こし、アルフィンを真上から見つめる体勢をとった。
アルフィンは胸元で握った手に、更に力を込めた。
ジョウの喉仏が、こくりと鳴る。腕枕をしてやっている左手で、アルフィンの髪を包み込むようにした。
「アルフィン……」
渇きでかすれた声が、ジョウの唇を割って出る。そしてゆっくりと顔をアルフィンの顔に寄せていった。
アルフィンは、たまらなくなってきゅっと目をつぶった。
唇と唇が、今まさに触れ合おうとした、その時。
ぐるぐるぐる……、きゅ〜。
二人の身体と身体のすき間から、ひどく聞き覚えのある、しかし最も場違いな音が鳴り上がった。
「 !?」
がば、とジョウは身を離した。慌てて腹を押さえる。
アルフィンは一瞬ぽかんと狐につままれたような顔を見せたが、次の瞬間声を上げて笑った。
「お、お腹減ってるの?ジョウ」
腹を抱えて爆笑している。無理もない。それほど派手にジョウの腹の虫は抗議の声を上げたのだ。
「すんごい音したわね、今。ひ、久しぶりに聞いたわ。ひとのお腹があんな音を立てるの」
「悪かったな」
ジョウは憮然としてころんと仰向けに寝転がった。正直くそっ、と吐き捨てたいところだ。折角いい雰囲気だったのに、全部おじゃんだ。
それも自分の腹の虫のせいだと思うと情けなくてがっくりくる。立ち直れない。
アルフィンはまなじりに涙を浮かべて肩をくつくつ揺すっている。ツボったとはいえ、いくらなんでも受けすぎだろう。
「いい加減にしろ」
自由になるほうの手で頭を小突く振りをすると、アルフィンは身をよじってよけた。そしてまた、ふふ、と笑って、
「早い時間に夕飯食べたきりだもんね。ところで、いま、何時?」
「ん、もう25時を回った」
クロノメーターを見てジョウが答える。
「日付、変わったんだ」
「ああ」
「そっか。ちょっと待ってて」
そう言い置いて、アルフィンはするりと、寝袋に入ってきたときと同じように猫を連想させるしなやかさで身を床から抜いた。
おい、とジョウが声をかける間もなく、壁際まで伝いで歩いて行って、クラッシュバックを開けた。暗がりの中、ごそごそと中を探っているようだ。
ジョウはアルフィンの背から目を離して、天井を見上げた。洞穴の低い壁にランプの光を受けてゆらりと輪郭をぼかしたアルフィンの影が照らし出される。
やがてそのシルエットは壁から消え、実体がジョウの元へ戻ってきた。
寝袋のさっきと同じ場所にアルフィンは滑り込み、ジョウに身を寄せた。ほんのわずか空けただけだというのに、ひんやりとその金髪が冷
気をまとっている。
「どうかしたか」
また腕を貸しながらジョウが訊いた。ううん、とアルフィンが首を振る。
「なんでもない。ちょっと、目つぶって ?ジョウ」
「え?」
「いいから。ちょっと目を閉じてみてよ」
なんでもないことあるか。ばればれなんだよ。
そう言いたいところだったが、何かアルフィンが楽しそうに含み笑いをしているので、水を差すのもアレだな、と思って大人しく言うことを聞いた。
目を瞑る。
すると。
何かが唇に触れたかと思うと、口の中に小さな欠片のようなものが押し込まれ、
ーー甘い。
ジョウは思わず口を押さえた。
これは。
「美味しい?」
アルフィンが目許を優しくカーブさせて彼に微笑みかける。
「これって、チョコレート、か?」
滑らかに舌の上を滑る小さな塊。口腔で転がされることに角を失って、緩やかに溶ける。
ん、と肩をそびやかすように笑って、アルフィンは赤いパッケージの板チョコをジョウの目の前にかざした。どこの店でも売っている、ジョウもよく買うやつだ。
「飛び込みの仕事を請けることに決まってから、クラッシュバックに入れておいたの。
もしかしたら、日にちをまたぐことになるかもしれないと思って」
「日にちをまたぐ?」
さっきもそのことを気にしていたことに思い当たる。一体今日が何の日だっていうんだ?
と、そこまで考えて、ふとジョウの頭の中で記憶の断片が光る。
「あ、」
ーーそうか。
したりで、アルフィンが頷く。
「気がついた? 今日は2月14日、バレンタインデーよ」
「・・・・・・そうだった」
思い出した。ああ、そうだ。去年アルフィンに教えてもらったこと。
どこかの小さな国の古い言い伝え、2月14日のバレンタインの日に女性が愛する男性にチョコを贈ると、その恋が実を結ぶというもの。
「ものもともとは想い人にではなく、家族や友人といった自分の愛する者にプレゼントを贈って、その人の幸福を願うという習慣だったらしいが、なぜかチョコレートというお菓子に贈り物が限定されて、女性からの愛の告白日に変わったのだと。
詳しい由来や効能のほどは分からないが、去年ネットでその言い伝えを見つけたアルフィンは、ジョウにくどくどと説明を加えながら2月14日に手作りのチョコレートを渡したのだ。甘く、歯が浮いてしまいそうなでかいハート型のチョコを。
しかし、アルフィンの願いも虚しく、ふたりの関係はちっとも進展しないまま、また一年が過ぎ。
いま、2月の14日を迎えた。
ジョウがそのことを完全に思い出す頃には、口に入れられたチョコの欠片は形もなく消えてしまっていた。
でも、消えようのない甘さが、彼の舌同様に心までも痺れさす。
「俺のために?」
飛び込みの仕事のさなかにも、俺を想ってくれていた?
バードの件で意地になって<ミネルバ>じゃ口も利かないでいたっていうのに。むくれた顔の裏側には、そんな気持ちを押し隠していたのか。
ジョウが訊くと、アルフィンは「うん。まあね」と照れくさそうに目をそらした。
「けんかしてたし。渡せないかもって思ったけど、一応ね。時間がなかったから、手作りのじゃなくてただの板チョコだけど。
冷蔵庫から出してクラッシュバックに突っ込んどいたの。カロリーはたっぷりあるから、空腹も紛れるはずよ。全部食べて、プレゼント兼、非常食よ」
言いながらアルフィンはチョコを手でかちんと割り、またジョウに一口大の欠片を運ぶ。
「それにしてもこんな風に渡せるなんて思っていなかった。何が起こるかわからないわね、ほんと」
「・・・・・・ああ」
チョコを差し出す手を、ジョウは握った。
(8へ)
気がつくとジョウは至近距離でアルフィンの瞳に見入っていた。
いや、魅入られていた。
とにかく、彼はアルフィンの双眸に視線を奪われていた。じっと見ていると深海の底にでも吸い込まれたような錯覚さえ覚える、深い深い碧が彼を包み込む。ジョウは、その色に浸されていたいという想いに、静かに捉われていった。
アルフィンは、ジョウの目の奥でアンバーの光彩が渦巻くのを見た。
森の湖面に立ち込める朝霧のように、抑えようとしても抑え切れない欲望のかぎろいが過ぎる。
心臓が不規則に鼓動を狂わせ始める。彼に見つめられると、瞬きさえも自分の自由にならない。
強いまなざしに、呼吸(いき)もできない。
ジョウが、わずか身を起こし、アルフィンを真上から見つめる体勢をとった。
アルフィンは胸元で握った手に、更に力を込めた。
ジョウの喉仏が、こくりと鳴る。腕枕をしてやっている左手で、アルフィンの髪を包み込むようにした。
「アルフィン……」
渇きでかすれた声が、ジョウの唇を割って出る。そしてゆっくりと顔をアルフィンの顔に寄せていった。
アルフィンは、たまらなくなってきゅっと目をつぶった。
唇と唇が、今まさに触れ合おうとした、その時。
ぐるぐるぐる……、きゅ〜。
二人の身体と身体のすき間から、ひどく聞き覚えのある、しかし最も場違いな音が鳴り上がった。
「 !?」
がば、とジョウは身を離した。慌てて腹を押さえる。
アルフィンは一瞬ぽかんと狐につままれたような顔を見せたが、次の瞬間声を上げて笑った。
「お、お腹減ってるの?ジョウ」
腹を抱えて爆笑している。無理もない。それほど派手にジョウの腹の虫は抗議の声を上げたのだ。
「すんごい音したわね、今。ひ、久しぶりに聞いたわ。ひとのお腹があんな音を立てるの」
「悪かったな」
ジョウは憮然としてころんと仰向けに寝転がった。正直くそっ、と吐き捨てたいところだ。折角いい雰囲気だったのに、全部おじゃんだ。
それも自分の腹の虫のせいだと思うと情けなくてがっくりくる。立ち直れない。
アルフィンはまなじりに涙を浮かべて肩をくつくつ揺すっている。ツボったとはいえ、いくらなんでも受けすぎだろう。
「いい加減にしろ」
自由になるほうの手で頭を小突く振りをすると、アルフィンは身をよじってよけた。そしてまた、ふふ、と笑って、
「早い時間に夕飯食べたきりだもんね。ところで、いま、何時?」
「ん、もう25時を回った」
クロノメーターを見てジョウが答える。
「日付、変わったんだ」
「ああ」
「そっか。ちょっと待ってて」
そう言い置いて、アルフィンはするりと、寝袋に入ってきたときと同じように猫を連想させるしなやかさで身を床から抜いた。
おい、とジョウが声をかける間もなく、壁際まで伝いで歩いて行って、クラッシュバックを開けた。暗がりの中、ごそごそと中を探っているようだ。
ジョウはアルフィンの背から目を離して、天井を見上げた。洞穴の低い壁にランプの光を受けてゆらりと輪郭をぼかしたアルフィンの影が照らし出される。
やがてそのシルエットは壁から消え、実体がジョウの元へ戻ってきた。
寝袋のさっきと同じ場所にアルフィンは滑り込み、ジョウに身を寄せた。ほんのわずか空けただけだというのに、ひんやりとその金髪が冷
気をまとっている。
「どうかしたか」
また腕を貸しながらジョウが訊いた。ううん、とアルフィンが首を振る。
「なんでもない。ちょっと、目つぶって ?ジョウ」
「え?」
「いいから。ちょっと目を閉じてみてよ」
なんでもないことあるか。ばればれなんだよ。
そう言いたいところだったが、何かアルフィンが楽しそうに含み笑いをしているので、水を差すのもアレだな、と思って大人しく言うことを聞いた。
目を瞑る。
すると。
何かが唇に触れたかと思うと、口の中に小さな欠片のようなものが押し込まれ、
ーー甘い。
ジョウは思わず口を押さえた。
これは。
「美味しい?」
アルフィンが目許を優しくカーブさせて彼に微笑みかける。
「これって、チョコレート、か?」
滑らかに舌の上を滑る小さな塊。口腔で転がされることに角を失って、緩やかに溶ける。
ん、と肩をそびやかすように笑って、アルフィンは赤いパッケージの板チョコをジョウの目の前にかざした。どこの店でも売っている、ジョウもよく買うやつだ。
「飛び込みの仕事を請けることに決まってから、クラッシュバックに入れておいたの。
もしかしたら、日にちをまたぐことになるかもしれないと思って」
「日にちをまたぐ?」
さっきもそのことを気にしていたことに思い当たる。一体今日が何の日だっていうんだ?
と、そこまで考えて、ふとジョウの頭の中で記憶の断片が光る。
「あ、」
ーーそうか。
したりで、アルフィンが頷く。
「気がついた? 今日は2月14日、バレンタインデーよ」
「・・・・・・そうだった」
思い出した。ああ、そうだ。去年アルフィンに教えてもらったこと。
どこかの小さな国の古い言い伝え、2月14日のバレンタインの日に女性が愛する男性にチョコを贈ると、その恋が実を結ぶというもの。
「ものもともとは想い人にではなく、家族や友人といった自分の愛する者にプレゼントを贈って、その人の幸福を願うという習慣だったらしいが、なぜかチョコレートというお菓子に贈り物が限定されて、女性からの愛の告白日に変わったのだと。
詳しい由来や効能のほどは分からないが、去年ネットでその言い伝えを見つけたアルフィンは、ジョウにくどくどと説明を加えながら2月14日に手作りのチョコレートを渡したのだ。甘く、歯が浮いてしまいそうなでかいハート型のチョコを。
しかし、アルフィンの願いも虚しく、ふたりの関係はちっとも進展しないまま、また一年が過ぎ。
いま、2月の14日を迎えた。
ジョウがそのことを完全に思い出す頃には、口に入れられたチョコの欠片は形もなく消えてしまっていた。
でも、消えようのない甘さが、彼の舌同様に心までも痺れさす。
「俺のために?」
飛び込みの仕事のさなかにも、俺を想ってくれていた?
バードの件で意地になって<ミネルバ>じゃ口も利かないでいたっていうのに。むくれた顔の裏側には、そんな気持ちを押し隠していたのか。
ジョウが訊くと、アルフィンは「うん。まあね」と照れくさそうに目をそらした。
「けんかしてたし。渡せないかもって思ったけど、一応ね。時間がなかったから、手作りのじゃなくてただの板チョコだけど。
冷蔵庫から出してクラッシュバックに突っ込んどいたの。カロリーはたっぷりあるから、空腹も紛れるはずよ。全部食べて、プレゼント兼、非常食よ」
言いながらアルフィンはチョコを手でかちんと割り、またジョウに一口大の欠片を運ぶ。
「それにしてもこんな風に渡せるなんて思っていなかった。何が起こるかわからないわね、ほんと」
「・・・・・・ああ」
チョコを差し出す手を、ジョウは握った。
(8へ)
ジョウも男なら、ここは頑張れ。
だからと言って、無理強いは、ダメだよ。
チョコのお返し位に、キス...
立て続けの投稿、ありがとうございました。
こうなるのはまあ自然のなりゆきですね
生物の摂理。。。