ここは楽園。楽園という名のバー。
この店に集まるのは一夜のパラダイスを求める寂しがり屋か、報われない恋を引きずる独り者ばかり。どっちにも当てはまるのは……多分アタシぐらいのもんだわね。
だからアタシはここをねぐらにする。「楽園」はアタシの庭。ここではアタシが女王様。
ねえ、女王様からひとつご忠告。この店にはカップルで来ちゃいけない。
ましてやアタシの目が黒いうち、目の前でいちゃつこうものなら、このアタシが許しちゃおかない、覚悟して――。
男、女、そしてそのどちらにも属さない人々でごった返すフロア。彼らの間を縫うように、そして彼らを優しく愛撫するかのように、フランキーのハスキーな歌声が気だるく流れていった。
普段はそのオカマ言葉に耳を奪われがちの彼女(彼?)だが、こうしてステージに立つと堂々、まるでいっぱしのシンガーのようだ。酒とタバコでかすれた声が、驚くほど店の雰囲気にはまっている。
誰もが皆、フランキーの歌声に酔い、体でリズムを取ったり、歌詞を口ずさんだりしている。楽園の時間がいっとき彼女に独占される。
だが、ただ二人、スタンドバーの一角を陣取るジョウとアルフィンにはその歌声は届かない。
いや、届いているのだが、まったく耳に入ってはいないようだ。
今夜のアルフィンは、ベロアとチュールのキャミソールに、ミニのスカート。それに膝下までのレースアップブーツを合わせている。
短い丈の下のぞく、ほどよく肉感的な生脚にいやでもフロアの男たちの視線が集まる。
それを知ってか知らずか、お姫様は音高くブーツのかかとを床に打ち鳴らす。
「んもう、アッタマきちゃう。ジョウの馬鹿っ」
怪気炎。すっかり目が据わってしまっている。
「何で俺が馬鹿なんだよ?」
ジョウは困り果てたように首の後ろを掻いた。こちらはファーのついたショート丈の黒のダウンにヴィンテージもののジーンズ。黒はジョウが最も好んで身につける色だ。ブーツも黒。
「自覚がないのが馬鹿よ。気づかない振りしてるのなら大馬鹿モンよ」
「何を言ってるのかわからない」
「嘘ばっかり!」
完全にむくれている。ジョウは後悔していた。アルフィンのペースに任せて飲ませたことを。そしてアルフィンより先に自分が酔ってしまわなかったことを……。
アルフィンの右手が勢いに任せてカクテルグラスを取り上げようとする。のを、ジョウが止めた。
「もう止めとけよ、飲みすぎだ」
アルフィンがぎろっと上目遣いに睨みつける。数多くの修羅場を踏んできたジョウでさえ思わずひるんでしまいそうな形相だ。
「ほうっといて。あたしの勝手でしょ」
「よせって」
グラスをアルフィンから離すため、高く持ち上げる。アルフィンがそれを取り返そうと背伸びして追う。
「もう、返してよ! 何すんのよ」
「いい加減にしろ。これ以上飲んだら帰れなくなるぞ」
「いいもん、帰れなくたって。ここに泊まるから」
「あのなあ」
「だめなら誰かに声かけて泊めて貰う」
「アルフィン!」
ジョウの声に怒気が含まれた、そのタイミングを見計らったかのように間延びした声が割って入った。
「どうだった~? アタシの歌……って、あらら、お取り込み中?」
フランキー。いつの間にかオンステージは終わっていたらしい。終わりかけのまばらな拍手をかいくぐって二人の元へ近づいてくる。しなしなとした内股だ。今宵のフランキーはドレープのたっぷり入った虹色のブラウスにスキニージーンズ、びっくりするくらい華奢な銀のピンヒール。いつも目を引く風貌だが、今夜は格別だ。
ジョウとアルフィンはばつが悪いのか視線を合わせようとしない。二人の間で、ジョウ、アルフィン、ジョウと視線を動かしたフランキーは、マスカラを塗って増量したまつげをせわしなく瞬かせる。あごに人差し指を当ててつぶやいた。
「んー、なんていうの? 冷た~い空気ってやつがここを取り巻いているような気がするわア……」
「俺、ちょっとオーダーしてくる。これ飲んでてくれ」
フランキー登場という助け舟に乗っかって、ジョウが一時退散を決める。手にしていたグラスを渡し、
「アルフィンに飲ませるなよ」
小声で囁く。
「オッケ~」
フランキーが了解のしるし、○マークを右手で作る。目と目でやりとりしてジョウはカウンターに向かっていった。
恨めしそうにその後姿を目で追っていたアルフィン。だが、フランキーがグラスに口をつけそうになるところを強引に奪い返す。止めるまもなくぐい、と一息であおる。
「あら……飲んじゃった」
フランキーが目をぱちくりさせて、一気飲みしたアルフィンの横顔を見やる。
ぷはあ、と酒臭い息をついで、アルフィンが口元を拭った。
「ああ美味しい。ったくジョウのボケナス。いざってときにチキンなんだから!」
「どーしたのよう、そんなに荒れて」
とりなす、というよりも面白がる口調を隠そうとせず、フランキーがアルフィンの横顔を掬い上げるように見た。空になったグラスをさりげなく奪い返す。フェイクの付け爪の色はシルバー。ごつい指先を美しくスクエアに飾っている。
でも残念ながら、今のアルフィンにはフランキーの念入りなおしゃれも目に入らない。
「どーしたもこーしたもないわよ。ジョウのやつ、あたしが他の男に誘われても知らん振りなんだから」
「あらっ」
自分好みの話の展開になってきた、とばかり、フランキーの目がきらんと輝く。
「さっきからあっちこっちで卑猥な声かけられたり、果てはすれ違いざま露骨に体に触られたりしてるのにさ、我関せず、って素知らぬ顔なんだもん。頭にも来るわよ」
フランキーはこれ以上見開けないほど目を見開いて、大きく何度も頷く。
「んまあ、それは業腹ね」
「でしょお?」
アルフィンの語気が荒くなる。煽るようにフランキーが追い討ちをかけた。
「大体ジョウは女心ってもんを知らないのよね」
「そうそう」
「女心の機微とかさ、繊細さを理解しようなんて意識が微塵もないのよ、あの男は」
ぼろくそだ。一段高くなっているカウンターで、年配のバーテンにオーダーをしているジョウの姿が見える。二人の会話が聞こえるはずもなく、その背中はこちらに向けられたままだ。
アルフィンはジョウの後頭部のあたりに目を固定したまま、スタンドバーテーブルに置かれたつまみのナッツを口に放り込む。音を立てて噛み砕いた。
「まったくもってジョウってば無神経よ」
含み笑い。でもそんなフランキーの横顔にアルフィンは気がつかない。
「……そうねえ。なんであんな無神経な男にほれちゃった訳? アルフィン」
いきなり核心を突かれ、一瞬アルフィンの手が止まる。
しかしすぐさまナッツを口に放り込み、言い捨てる。
「知らないわよ。もう忘れた」
「忘れた、か。嘘つきな女ねえ、あんたも」
「無神経男よりはマシよ」
斬って捨てる。
ちょうどジョウがこちらを向いたときだった。心配そうな顔をしている。きっとアルフィンがフランキーからアルコールを奪って飲んでやしないかと気が気でないのだ。
既にカクテルはアルフィンの喉を下っていってしまっている。
ごめんね。約束守れなかったわ。
心の中でジョウに手を合わせるフランキー。
その代わり、少し援護射撃でもしとこうかしら。顔にかかる髪をかき上げ、アルフィンに向き直る。
「そうね。でもアンタもだいぶ無神経よ、アルフィン」
「えっ」
すっかり自分サイドで話を聞いてもらっていたと思いこんでいたアルフィン。驚いて顔を上げる。
アイシャドウで黒々と縁取りした目と間近でぶつかる。
真顔。
「フランキー?」
「ジョウの隣に居て、よそからエッチな声かけられたぐらいでぴーぴー言ってんじゃないの。いざって時には泣きついて助けてもらおうと思ってるくせに」
ぴしゃりと鼻先に言葉をぶつけられる。図星。
アルフィンの目に動揺が走った。
でもすぐに立て直す。
「そんなこと……。だってジョウだって知らん振りなのよ」
フランキーは長い髪の毛先をくるくると指に巻きつけながら言った。
「いちいち取り合ってちゃ馬鹿見るからでしょ。こういう店じゃ茶飯事なのよ。っていうかもててる証拠。光栄なことよ」
「でも……からだとか触られたし」
「どこ? おっぱいとかお尻とか?」
かぶりを振るアルフィン。
「じゃなくて、背中とか肩……腰も」
次第にアルフィンの声が低くなる。俯きがちになるにつれて、子供が駄々をこねるように言葉が口の中くぐもっていく。
「は。ボディタッチがなんだっての? それも挨拶よ。この店で許容される範囲の。アタシなんかもう十年も触られまくり。ま、その倍は触りまくってるけどね」
「ずいぶん低俗なお店なのね」
言ってから、はっと口を押さえる。が後の祭りだった。
楽園にはきょう初めて来た。アルフィンがフランキーに頼み込んで連れて来てもらったのだ。以前ケンが話しているのを聞いて一度行ってみたいと思っていた。フランキーの城、とケンは言っていた。あいつはあそこでは女王様なんや、と。
物見遊山、みたいな気持ちだった。どちらかといえば。しかも、しぶるジョウを強引に誘った。
フランキーは黙ったままだ。気まずい沈黙が降りてくる。さっき、フランキーが言った、「冷たい空気」というやつを、アルフィンはひしひしと感じていた。
アルフィンは唇を噛んだ。
やがてフランキーのほうが、アルフィンをいたわるような口調でそっと言葉を差し出した。
「……自分は安全なところにいて、飼い主にキャンキャン噛み付くだけだったら、ペットの犬のほうが何ぼかマシよ? お嬢ちゃん」
かっとアルフィンの頬に血の気が射した。酒気ではない類の紅潮のしかた。
昂然と顎を上げ、自分より一回りも大きい男女を睨みつける。
「犬なんて……ひどい。あんまりじゃない」
「……」
フランキーは表情一つ変えず、アルフィンの強い視線を受け止めている。
ややあって視線を逸らし、シガレットケースから細身のタバコを一本抜き出した。慣れた手つきで、細やかな細工の施された銀のライターで先端に火をつけた。ぷはああ、とわざとらしく息をつく。
スクエアの爪先に紫煙が絡みつくのをしばらく眺めてから、フランキーはアルフィンに向き直った。
「全くしようがない甘ったれね。ジョウもこんなガキのどこがいいんだか……。まあいいわ。わかったわ、今からあたしがいいこと教えてあげる。ジョウは絶対に教えてくれてないことだからね、心して聞くのよ、わかった?」
早口でまくし立てると有無を言わさぬ迫力だ。
アルフィンは意味が分からなかったがそれでもクラッシャーの端くれ。すぐさま身構え、応戦体制を整える。
フランキーはゆっくりためを作って、タバコを灰皿にもみ消した。
そして、
「アタシは、あんたみたいな女が、大嫌いよ」
ひとことひとこと、区切るように言った。
思わずアルフィンは絶句する。
ぐい、とフランキーは身を乗り出す。いきなりの急接近に、反射的にアルフィンの上半身が引ける。
「そんなに綺麗な蒼い目を潤ませて、じっと男をにらみつけてごらん。ジョウでなくたって一時退却したくなるわよ。あんまし可愛くて」
「えっ?」
アルフィンは、フランキーのよく動く口元をぽかんと見つめていた。あまり接近しすぎて、大きな口しか目に入らないのだ。
堰を切ったダムのように、いや暴発したマシンガンのようにアルフィンに言葉が降り注ぐ。
「アンタはね、自覚がなさ過ぎるの。自分が男の目にどう映るか、全く計算してないのがむかつくのよ。ううん、計算はあるわね、一応女だもの。でもその計算は甘すぎるの。大甘よ! その甘さがまた可愛いって言うか、男にとっちゃあ垂涎ものなわけよ。まあ何を言ってるか分からないんでしょうけど。とにかくあんたは男の理性を当てにしすぎてるわ。あれじゃジョウが可哀相……。
それにそのからだ!」
フランキーがぐわっと牙を剥く。噛みつかれる! ライオンを前にした小鹿のように思わずアルフィンは身を縮めた。
「出るとこは出ててるくせに手足なんかすらっとして、にくったらしいったらないわ! おっぱいなんてすべすべなんでしょう。えっちよ。自分がどれだけえっちな体してるか自覚がないのよ。そんな子に四六時中側に張り付かれてごらん、ジョウの自制心だってねえ、限界ってもんがあるのよ」
きいいいいと、喉の奥から金切り声を引っ張り出す。マシンガンは更にヒートアップしていく。
「それになんでそんないい匂いがすんのよ。香水つけてる風でもないのに。シャンプー? シャンプーなの? どこの使ってるの? 後で教えなさいよ。絶対よ。男って最悪よ。どんなに高価い香水よりも、女の自然なフェロモン、っていうの? 何もつけてないからだの匂いのほうが好きなのよ。いちころなの。アンタなんか匂いとか香水とかそういうの全然無頓着なんでしょう、そんなのってアリ? なんでアンタみたいな何の努力もしていない女が極上の男に愛されて、アタシの愛はいっつもいっつも報われないわけ?」
予想をはるかに裏切る展開にアルフィンは全くついていけない。目を白黒させている。
「フ、フラン……???」
「だいたいね、触られるのがやだったら、そんな短いスカートでなんか来なけりゃいいのよ。ジーンズでもクラジャケでも着てくりゃいいじゃないの。作業着だっていいわ。触られる? いいじゃない、触られてなんぼの世界でしょ、おんなってのは。触られなくなったらおしまいよ。首くくって死んじゃいな。アタシなんか、アタシなんかね。最近じゃ頼んでも誰も触ってくれないのようう」
天を仰いで悲嘆に暮れる。自分の不幸を呪う。
アルフィンは自分が店のショーかステージの一幕でも見せられているのかと思った。フランキーの一人芝居が目下絶賛上演中で、それの一部に自分がキャストか観客として取り込まれているのだ。
でもここにはスポットライトは当たっていない。
じゃなきゃ、これは悪夢だわ……。
話しているうちに、どうやら別のスイッチが入ってしまったようなフランキーの取り乱しように、アルフィンはただ呆然と立ち尽くすしかない。しかしなぜか周りの客は鬼気迫るフランキーを面白がるように眺めてはいるものの、自分たちの会話や踊りを止めようとはしない。思い思い、自分の時間を満喫している。さきほどまでと全く変わらない店のムード。
それが肩で息をしていたフランキーを、ふとクールダウンさせた。ふう、と呼吸を整えてほつれた髪を直す。ブラウスの皺を直し、そして態勢を整えて、再びアルフィンという獲物を目の前に捉える。
獰猛な獣が、無垢な小動物を物陰で見つけ、こっそり舌なめずりをしていそうな、そんな笑みを浮かべる。
「でも一番最悪なのは……」
すい、と手を伸ばし細いアルフィンの顎を指先で掬い上げる。
一瞬びくっと身をすくませるが、アルフィンは気丈に後ろに下がりそうになるのをこらえ、高いかかとのブーツで踏ん張った。
思った以上に美しく深い黒を湛える瞳に、魅入られアルフィンは動きを封じられる。
息がかかるくらい、フランキーの顔がアルフィンに近づく。
ねっとりとフランキーの熱い吐息が頬を撫でる。
「アンタの唇よ。拗ねれば拗ねるだけとんがって……。ジョウにキスでもねだっているつもりなの? ん?」
アルフィンの唇は瑞々しい果実のように潤っている。
押さえられた顎のせいで、半開きになったところから白い歯が覗くのがやけに扇情的だ。
フランキーの目がすうっと細くなる。何かをたくらむ目。これまで数多くの悪人と丁々発止、互角以上にやりあい、ここまで生き抜いてきた百戦錬磨のつわものの目を覗かせる。
アルフィンは戦慄する。普段見せないフランキーの本性を垣間見た気がして。もう体は全く動かない。声さえ出ない。蛇ににらまれた蛙そのものだ。
「ねえ、知ってた? アタシ、実は……女もOKなの」
次の瞬間。
フランキーの唇が、アルフィンのものを覆った。
むさぼる。
「!」
舌先が唇を割って侵入してくる初めての感触に、アルフィンは震えた。とっさに抵抗しようとしたが、相手は巨漢のフランキー、顎を押さえつけられ、もう一方の手は背中に回され、逃れられる術はない。濃厚なキスに息も出来ない。
「!……や……」
それでも必死で身をよじる。その脚を割ってフランキーの脚が入り込もうとする。薄絹のブラウスの柔らかな感触に包まれた、筋肉質のからだが生々しかった。
アルフィンは理解した。男のひと、なんだ。
フランキーも。そして、ジョウも。
あたし……、いままでそんなの……。
ようやくカチリとアルフィンの中で何かが繋がった。
フランキーが苛立っている理由、まくし立てた言葉の意味を皮膚感覚で理解できた。
必死で抵抗していたアルフィンの体から、ふっと何かが抜けていった。背中に回したフランキーの手が、アルフィンの肉付きのいいヒップをスカートの上からわしづかみにした、その刹那。
激しい衝撃がフランキーを襲った。
「!」
夢から醒めたように、アルフィンは我に返った。とっさに自分にのしかかる巨体を思い切り突き飛ばした。つもりだった。
しかしフランキーの姿は既に目の前になく、瞬きする間にフロアに仰向けに転がっていた。ブラウスの肩先が濡れている。脇に粉々に割れたグラス。立ち上る香気はマティーニ。
「おっ……つつつつ。いったあい。何すんのよう」
泣き声を上げる。顔をしかめ、左の頬を押さえている。
その情けない、でもどこか憎めない姿はさっきまでのフランキーではなく、いつもの、アルフィンのよく知っている彼女(彼)の姿だった。
ジョウがいつの間にか、アルフィンの前に立っている。
今にもフランキーを殺しかねない形相だった。目が剃刀のように細められる。
「何のつもりだ、フランキー。事と理由によっちゃ、お前でも容赦しないぜ」
辛うじて残りの理性をかき集めて、ジョウが口を開く。怒りで声が震えている。相手が知己のフランキーだから一発で済んでいるものの、他の人間ならもうとっくに切れて半殺しにしているところだ。
フランキーは上体を起こして、肩をすくめた。いつもの道化た笑みを口元に湛える。
「べつに。そこのお嬢ちゃんがあんまし可愛いんで、口説いてただけよ」
「!」
「待って!」
フランキーに殴りかかろうとしたジョウにアルフィンはすがった。止める。
「止めて、ジョウ。あたしが悪いの、あたしのせいなの」
ごめんなさい。声を振り絞る。
ジョウの当惑が引き止めた腕を伝わって流れてくる。収まらない怒りが彼の中で渦巻いているのをダイレクトに感じる。
そんな二人を見上げながら、何かを振り払うようにフランキーは立ち上がった。よっこいしょ、わざと年寄り臭く身を起こしながら、
「……最後の最後で、そういういい子ぶるところもきらあい」
と呟く。
ジョウは、隣で恥じるように身を硬くしたアルフィンを見逃さない。
「おい、フランキー。なんだよ。そんなんじゃ説明になってない。ちゃんと言えよ」
ぱんぱん。ジョウの言葉が終わらないうちにフランキーは二度、手を打った。
「はいはい、もうお開きよ。ショーはお終い。見世物じゃないんだからね、さ、散った散った」
適当にあしらう。ジョウも、冷やかすように遠巻きに観ているギャラリーも。
それから、二人に向き直った。
有無を言わさぬ口調で告げる。
「あんたたちも、今夜はもう帰って。出直して。……子供は寝る時間だわよ」
かっとして更に追及しようとするジョウを、アルフィンが押しとどめた。帰ろう、と繰り返す。お願い、帰ろう、と。
唇を奪われたアルフィンのほうが、まるで悪いことをしたかのように退散したがるのを怪訝に思いつつも、ジョウはアルフィンに逆らえない。それくらい必死だったからだ。言い足りない思いを抱えつつ、ふんぎるようにジョウが踵を返す。アルフィンも後を追う。野次馬を縫って出口に向かおうとした二人。その背中にフランキーは言葉を投げる。
「ねえ、お嬢ちゃん」
アルフィンがどきっと歩を止め、振り向く。こわごわ、フランキーの目を見る。
フランキーは腫れた頬を隠そうともせず、腰に手を当て優雅に笑った。
「アタシのキス、どうだった? ジョウとは比べ物にならないくらい上手でしょ? なんなら――」
ぱあん!
頬を打つ派手な音がフロアに鳴り響いた。
一瞬、しんと水を打ったようになる。今の今まで彼らのどたばたには無関心だったギャラリーでさえ、息を呑んで動きを止めた。
ノリのいいBGMだけが空気を読めずに背後でテンポよく流れ続ける。
ジョウが拳を振るう間もなかった。アルフィンがフランキーを張った。それも、ジョウが殴ったほうの頬を。
フランキーが唇の端を舐めた。赤い舌先が覗く。
笑みを崩さず、
「……けっこう効くわね」
と呟いた。
アルフィンは冷たく言い放った。
「今のでキスは帳消しにしてあげる。分かった?」
フランキーはごつい肩をすくめた。
「……おっけー」
「いこ、ジョウ」
「あ、ああ……」
金髪を翻し、アルフィンがドアを押して出て行く。ジョウはまだ気が収まらないようだったが、しようがなく、無理繰り腹の底に苦いものを押し込めるようにしぶい顔をして後に続いた。
数歩、行きかけて、足を止める。
「見損なったぜ、フランキー」
フランキーの方を見もしないで言い捨て、ジョウも店を後にした。
ドアが閉まると、またもとの喧騒がフロアに戻ってきた。それでもフランキーをいたわってか、さざなみのように客たちの会話のトーンは控えめだ。
「……あーあ、やっちゃった」
フランキーは自嘲した。ブラウスの肩が冷たい。今まで濡れているのにも気づかなかった。せっかくジョウが持ってきてくれたのに。もったいないことしちゃったわ、マティーニ一つ。
腕に滴る透明な液体を、ぺろりと舌に載せてみた。
「どうしてアタシってばこう、最後の最後で悪役ぶっちゃうかなあ」
とんだ貧乏くじね。ジョウに嫌われたかな。
はは、と空笑い。
災難だったな、とか、若い子をあんまからかうんじゃないわよ、とか、無責任を装ったギャラリーから声がかかる。指笛を吹き、拍手しているヤツもいる。どれもこれも馴染みの、常連の顔だ。
フランキーはそれらをいなしながら、さきほどまで立っていたステージに悠々と向かう。
「ありがと、ありがと。お騒がせしたわね。お詫びってわけじゃないけど、もう一曲いいかしら?」
歓声が上がる。拍手も大きくなる。後押しを受けて、フランキーの瞳に力が蘇る。胸を張る。
「ようし、今夜はトコトン歌うわよう! じゃんじゃんリクエストして頂戴。飲んで、夜通し騒いじゃおう!」
いいぞ! そうこなくっちゃ、フランキー! そんな声を背に、フランキーはひらりとステージに上がる。バックバンドに声をかけ、旧式のスタンドマイクを握った。照明が入る。フランキーが一番好きな色、そして自分を一番綺麗に見せる色だと信じて疑わない深いパープルが、彼をきらびやかに包み込む。
カウント。
―― ま、いっか。あの子とキスしたってことは、ジョウと間接キッスしたってことだもんね。
にんまり。紫の光の中、不敵に笑ったところで緩やかに前奏が始まる。
ここは楽園。楽園という名のバー。
ここではアタシが女王様。
ねえ、女王様からひとつご忠告。この店にはカップルで来ちゃいけない。
ましてやアタシの目が黒いうち、目の前でいちゃつこうものなら、このアタシが許しちゃおかない、覚悟して――。
<END>
2007年初出
なつかしの、愛すべき性別不明のクラッシャ-が出てきます。ダイバーシテイの現在、コンプライアンス的に表現がアウトかなと思うところもありましたが、初出のまま、書いたときのキャラクターへの愛情のままアップします。ご了承ください。
⇒pixiv安達 薫
この店に集まるのは一夜のパラダイスを求める寂しがり屋か、報われない恋を引きずる独り者ばかり。どっちにも当てはまるのは……多分アタシぐらいのもんだわね。
だからアタシはここをねぐらにする。「楽園」はアタシの庭。ここではアタシが女王様。
ねえ、女王様からひとつご忠告。この店にはカップルで来ちゃいけない。
ましてやアタシの目が黒いうち、目の前でいちゃつこうものなら、このアタシが許しちゃおかない、覚悟して――。
男、女、そしてそのどちらにも属さない人々でごった返すフロア。彼らの間を縫うように、そして彼らを優しく愛撫するかのように、フランキーのハスキーな歌声が気だるく流れていった。
普段はそのオカマ言葉に耳を奪われがちの彼女(彼?)だが、こうしてステージに立つと堂々、まるでいっぱしのシンガーのようだ。酒とタバコでかすれた声が、驚くほど店の雰囲気にはまっている。
誰もが皆、フランキーの歌声に酔い、体でリズムを取ったり、歌詞を口ずさんだりしている。楽園の時間がいっとき彼女に独占される。
だが、ただ二人、スタンドバーの一角を陣取るジョウとアルフィンにはその歌声は届かない。
いや、届いているのだが、まったく耳に入ってはいないようだ。
今夜のアルフィンは、ベロアとチュールのキャミソールに、ミニのスカート。それに膝下までのレースアップブーツを合わせている。
短い丈の下のぞく、ほどよく肉感的な生脚にいやでもフロアの男たちの視線が集まる。
それを知ってか知らずか、お姫様は音高くブーツのかかとを床に打ち鳴らす。
「んもう、アッタマきちゃう。ジョウの馬鹿っ」
怪気炎。すっかり目が据わってしまっている。
「何で俺が馬鹿なんだよ?」
ジョウは困り果てたように首の後ろを掻いた。こちらはファーのついたショート丈の黒のダウンにヴィンテージもののジーンズ。黒はジョウが最も好んで身につける色だ。ブーツも黒。
「自覚がないのが馬鹿よ。気づかない振りしてるのなら大馬鹿モンよ」
「何を言ってるのかわからない」
「嘘ばっかり!」
完全にむくれている。ジョウは後悔していた。アルフィンのペースに任せて飲ませたことを。そしてアルフィンより先に自分が酔ってしまわなかったことを……。
アルフィンの右手が勢いに任せてカクテルグラスを取り上げようとする。のを、ジョウが止めた。
「もう止めとけよ、飲みすぎだ」
アルフィンがぎろっと上目遣いに睨みつける。数多くの修羅場を踏んできたジョウでさえ思わずひるんでしまいそうな形相だ。
「ほうっといて。あたしの勝手でしょ」
「よせって」
グラスをアルフィンから離すため、高く持ち上げる。アルフィンがそれを取り返そうと背伸びして追う。
「もう、返してよ! 何すんのよ」
「いい加減にしろ。これ以上飲んだら帰れなくなるぞ」
「いいもん、帰れなくたって。ここに泊まるから」
「あのなあ」
「だめなら誰かに声かけて泊めて貰う」
「アルフィン!」
ジョウの声に怒気が含まれた、そのタイミングを見計らったかのように間延びした声が割って入った。
「どうだった~? アタシの歌……って、あらら、お取り込み中?」
フランキー。いつの間にかオンステージは終わっていたらしい。終わりかけのまばらな拍手をかいくぐって二人の元へ近づいてくる。しなしなとした内股だ。今宵のフランキーはドレープのたっぷり入った虹色のブラウスにスキニージーンズ、びっくりするくらい華奢な銀のピンヒール。いつも目を引く風貌だが、今夜は格別だ。
ジョウとアルフィンはばつが悪いのか視線を合わせようとしない。二人の間で、ジョウ、アルフィン、ジョウと視線を動かしたフランキーは、マスカラを塗って増量したまつげをせわしなく瞬かせる。あごに人差し指を当ててつぶやいた。
「んー、なんていうの? 冷た~い空気ってやつがここを取り巻いているような気がするわア……」
「俺、ちょっとオーダーしてくる。これ飲んでてくれ」
フランキー登場という助け舟に乗っかって、ジョウが一時退散を決める。手にしていたグラスを渡し、
「アルフィンに飲ませるなよ」
小声で囁く。
「オッケ~」
フランキーが了解のしるし、○マークを右手で作る。目と目でやりとりしてジョウはカウンターに向かっていった。
恨めしそうにその後姿を目で追っていたアルフィン。だが、フランキーがグラスに口をつけそうになるところを強引に奪い返す。止めるまもなくぐい、と一息であおる。
「あら……飲んじゃった」
フランキーが目をぱちくりさせて、一気飲みしたアルフィンの横顔を見やる。
ぷはあ、と酒臭い息をついで、アルフィンが口元を拭った。
「ああ美味しい。ったくジョウのボケナス。いざってときにチキンなんだから!」
「どーしたのよう、そんなに荒れて」
とりなす、というよりも面白がる口調を隠そうとせず、フランキーがアルフィンの横顔を掬い上げるように見た。空になったグラスをさりげなく奪い返す。フェイクの付け爪の色はシルバー。ごつい指先を美しくスクエアに飾っている。
でも残念ながら、今のアルフィンにはフランキーの念入りなおしゃれも目に入らない。
「どーしたもこーしたもないわよ。ジョウのやつ、あたしが他の男に誘われても知らん振りなんだから」
「あらっ」
自分好みの話の展開になってきた、とばかり、フランキーの目がきらんと輝く。
「さっきからあっちこっちで卑猥な声かけられたり、果てはすれ違いざま露骨に体に触られたりしてるのにさ、我関せず、って素知らぬ顔なんだもん。頭にも来るわよ」
フランキーはこれ以上見開けないほど目を見開いて、大きく何度も頷く。
「んまあ、それは業腹ね」
「でしょお?」
アルフィンの語気が荒くなる。煽るようにフランキーが追い討ちをかけた。
「大体ジョウは女心ってもんを知らないのよね」
「そうそう」
「女心の機微とかさ、繊細さを理解しようなんて意識が微塵もないのよ、あの男は」
ぼろくそだ。一段高くなっているカウンターで、年配のバーテンにオーダーをしているジョウの姿が見える。二人の会話が聞こえるはずもなく、その背中はこちらに向けられたままだ。
アルフィンはジョウの後頭部のあたりに目を固定したまま、スタンドバーテーブルに置かれたつまみのナッツを口に放り込む。音を立てて噛み砕いた。
「まったくもってジョウってば無神経よ」
含み笑い。でもそんなフランキーの横顔にアルフィンは気がつかない。
「……そうねえ。なんであんな無神経な男にほれちゃった訳? アルフィン」
いきなり核心を突かれ、一瞬アルフィンの手が止まる。
しかしすぐさまナッツを口に放り込み、言い捨てる。
「知らないわよ。もう忘れた」
「忘れた、か。嘘つきな女ねえ、あんたも」
「無神経男よりはマシよ」
斬って捨てる。
ちょうどジョウがこちらを向いたときだった。心配そうな顔をしている。きっとアルフィンがフランキーからアルコールを奪って飲んでやしないかと気が気でないのだ。
既にカクテルはアルフィンの喉を下っていってしまっている。
ごめんね。約束守れなかったわ。
心の中でジョウに手を合わせるフランキー。
その代わり、少し援護射撃でもしとこうかしら。顔にかかる髪をかき上げ、アルフィンに向き直る。
「そうね。でもアンタもだいぶ無神経よ、アルフィン」
「えっ」
すっかり自分サイドで話を聞いてもらっていたと思いこんでいたアルフィン。驚いて顔を上げる。
アイシャドウで黒々と縁取りした目と間近でぶつかる。
真顔。
「フランキー?」
「ジョウの隣に居て、よそからエッチな声かけられたぐらいでぴーぴー言ってんじゃないの。いざって時には泣きついて助けてもらおうと思ってるくせに」
ぴしゃりと鼻先に言葉をぶつけられる。図星。
アルフィンの目に動揺が走った。
でもすぐに立て直す。
「そんなこと……。だってジョウだって知らん振りなのよ」
フランキーは長い髪の毛先をくるくると指に巻きつけながら言った。
「いちいち取り合ってちゃ馬鹿見るからでしょ。こういう店じゃ茶飯事なのよ。っていうかもててる証拠。光栄なことよ」
「でも……からだとか触られたし」
「どこ? おっぱいとかお尻とか?」
かぶりを振るアルフィン。
「じゃなくて、背中とか肩……腰も」
次第にアルフィンの声が低くなる。俯きがちになるにつれて、子供が駄々をこねるように言葉が口の中くぐもっていく。
「は。ボディタッチがなんだっての? それも挨拶よ。この店で許容される範囲の。アタシなんかもう十年も触られまくり。ま、その倍は触りまくってるけどね」
「ずいぶん低俗なお店なのね」
言ってから、はっと口を押さえる。が後の祭りだった。
楽園にはきょう初めて来た。アルフィンがフランキーに頼み込んで連れて来てもらったのだ。以前ケンが話しているのを聞いて一度行ってみたいと思っていた。フランキーの城、とケンは言っていた。あいつはあそこでは女王様なんや、と。
物見遊山、みたいな気持ちだった。どちらかといえば。しかも、しぶるジョウを強引に誘った。
フランキーは黙ったままだ。気まずい沈黙が降りてくる。さっき、フランキーが言った、「冷たい空気」というやつを、アルフィンはひしひしと感じていた。
アルフィンは唇を噛んだ。
やがてフランキーのほうが、アルフィンをいたわるような口調でそっと言葉を差し出した。
「……自分は安全なところにいて、飼い主にキャンキャン噛み付くだけだったら、ペットの犬のほうが何ぼかマシよ? お嬢ちゃん」
かっとアルフィンの頬に血の気が射した。酒気ではない類の紅潮のしかた。
昂然と顎を上げ、自分より一回りも大きい男女を睨みつける。
「犬なんて……ひどい。あんまりじゃない」
「……」
フランキーは表情一つ変えず、アルフィンの強い視線を受け止めている。
ややあって視線を逸らし、シガレットケースから細身のタバコを一本抜き出した。慣れた手つきで、細やかな細工の施された銀のライターで先端に火をつけた。ぷはああ、とわざとらしく息をつく。
スクエアの爪先に紫煙が絡みつくのをしばらく眺めてから、フランキーはアルフィンに向き直った。
「全くしようがない甘ったれね。ジョウもこんなガキのどこがいいんだか……。まあいいわ。わかったわ、今からあたしがいいこと教えてあげる。ジョウは絶対に教えてくれてないことだからね、心して聞くのよ、わかった?」
早口でまくし立てると有無を言わさぬ迫力だ。
アルフィンは意味が分からなかったがそれでもクラッシャーの端くれ。すぐさま身構え、応戦体制を整える。
フランキーはゆっくりためを作って、タバコを灰皿にもみ消した。
そして、
「アタシは、あんたみたいな女が、大嫌いよ」
ひとことひとこと、区切るように言った。
思わずアルフィンは絶句する。
ぐい、とフランキーは身を乗り出す。いきなりの急接近に、反射的にアルフィンの上半身が引ける。
「そんなに綺麗な蒼い目を潤ませて、じっと男をにらみつけてごらん。ジョウでなくたって一時退却したくなるわよ。あんまし可愛くて」
「えっ?」
アルフィンは、フランキーのよく動く口元をぽかんと見つめていた。あまり接近しすぎて、大きな口しか目に入らないのだ。
堰を切ったダムのように、いや暴発したマシンガンのようにアルフィンに言葉が降り注ぐ。
「アンタはね、自覚がなさ過ぎるの。自分が男の目にどう映るか、全く計算してないのがむかつくのよ。ううん、計算はあるわね、一応女だもの。でもその計算は甘すぎるの。大甘よ! その甘さがまた可愛いって言うか、男にとっちゃあ垂涎ものなわけよ。まあ何を言ってるか分からないんでしょうけど。とにかくあんたは男の理性を当てにしすぎてるわ。あれじゃジョウが可哀相……。
それにそのからだ!」
フランキーがぐわっと牙を剥く。噛みつかれる! ライオンを前にした小鹿のように思わずアルフィンは身を縮めた。
「出るとこは出ててるくせに手足なんかすらっとして、にくったらしいったらないわ! おっぱいなんてすべすべなんでしょう。えっちよ。自分がどれだけえっちな体してるか自覚がないのよ。そんな子に四六時中側に張り付かれてごらん、ジョウの自制心だってねえ、限界ってもんがあるのよ」
きいいいいと、喉の奥から金切り声を引っ張り出す。マシンガンは更にヒートアップしていく。
「それになんでそんないい匂いがすんのよ。香水つけてる風でもないのに。シャンプー? シャンプーなの? どこの使ってるの? 後で教えなさいよ。絶対よ。男って最悪よ。どんなに高価い香水よりも、女の自然なフェロモン、っていうの? 何もつけてないからだの匂いのほうが好きなのよ。いちころなの。アンタなんか匂いとか香水とかそういうの全然無頓着なんでしょう、そんなのってアリ? なんでアンタみたいな何の努力もしていない女が極上の男に愛されて、アタシの愛はいっつもいっつも報われないわけ?」
予想をはるかに裏切る展開にアルフィンは全くついていけない。目を白黒させている。
「フ、フラン……???」
「だいたいね、触られるのがやだったら、そんな短いスカートでなんか来なけりゃいいのよ。ジーンズでもクラジャケでも着てくりゃいいじゃないの。作業着だっていいわ。触られる? いいじゃない、触られてなんぼの世界でしょ、おんなってのは。触られなくなったらおしまいよ。首くくって死んじゃいな。アタシなんか、アタシなんかね。最近じゃ頼んでも誰も触ってくれないのようう」
天を仰いで悲嘆に暮れる。自分の不幸を呪う。
アルフィンは自分が店のショーかステージの一幕でも見せられているのかと思った。フランキーの一人芝居が目下絶賛上演中で、それの一部に自分がキャストか観客として取り込まれているのだ。
でもここにはスポットライトは当たっていない。
じゃなきゃ、これは悪夢だわ……。
話しているうちに、どうやら別のスイッチが入ってしまったようなフランキーの取り乱しように、アルフィンはただ呆然と立ち尽くすしかない。しかしなぜか周りの客は鬼気迫るフランキーを面白がるように眺めてはいるものの、自分たちの会話や踊りを止めようとはしない。思い思い、自分の時間を満喫している。さきほどまでと全く変わらない店のムード。
それが肩で息をしていたフランキーを、ふとクールダウンさせた。ふう、と呼吸を整えてほつれた髪を直す。ブラウスの皺を直し、そして態勢を整えて、再びアルフィンという獲物を目の前に捉える。
獰猛な獣が、無垢な小動物を物陰で見つけ、こっそり舌なめずりをしていそうな、そんな笑みを浮かべる。
「でも一番最悪なのは……」
すい、と手を伸ばし細いアルフィンの顎を指先で掬い上げる。
一瞬びくっと身をすくませるが、アルフィンは気丈に後ろに下がりそうになるのをこらえ、高いかかとのブーツで踏ん張った。
思った以上に美しく深い黒を湛える瞳に、魅入られアルフィンは動きを封じられる。
息がかかるくらい、フランキーの顔がアルフィンに近づく。
ねっとりとフランキーの熱い吐息が頬を撫でる。
「アンタの唇よ。拗ねれば拗ねるだけとんがって……。ジョウにキスでもねだっているつもりなの? ん?」
アルフィンの唇は瑞々しい果実のように潤っている。
押さえられた顎のせいで、半開きになったところから白い歯が覗くのがやけに扇情的だ。
フランキーの目がすうっと細くなる。何かをたくらむ目。これまで数多くの悪人と丁々発止、互角以上にやりあい、ここまで生き抜いてきた百戦錬磨のつわものの目を覗かせる。
アルフィンは戦慄する。普段見せないフランキーの本性を垣間見た気がして。もう体は全く動かない。声さえ出ない。蛇ににらまれた蛙そのものだ。
「ねえ、知ってた? アタシ、実は……女もOKなの」
次の瞬間。
フランキーの唇が、アルフィンのものを覆った。
むさぼる。
「!」
舌先が唇を割って侵入してくる初めての感触に、アルフィンは震えた。とっさに抵抗しようとしたが、相手は巨漢のフランキー、顎を押さえつけられ、もう一方の手は背中に回され、逃れられる術はない。濃厚なキスに息も出来ない。
「!……や……」
それでも必死で身をよじる。その脚を割ってフランキーの脚が入り込もうとする。薄絹のブラウスの柔らかな感触に包まれた、筋肉質のからだが生々しかった。
アルフィンは理解した。男のひと、なんだ。
フランキーも。そして、ジョウも。
あたし……、いままでそんなの……。
ようやくカチリとアルフィンの中で何かが繋がった。
フランキーが苛立っている理由、まくし立てた言葉の意味を皮膚感覚で理解できた。
必死で抵抗していたアルフィンの体から、ふっと何かが抜けていった。背中に回したフランキーの手が、アルフィンの肉付きのいいヒップをスカートの上からわしづかみにした、その刹那。
激しい衝撃がフランキーを襲った。
「!」
夢から醒めたように、アルフィンは我に返った。とっさに自分にのしかかる巨体を思い切り突き飛ばした。つもりだった。
しかしフランキーの姿は既に目の前になく、瞬きする間にフロアに仰向けに転がっていた。ブラウスの肩先が濡れている。脇に粉々に割れたグラス。立ち上る香気はマティーニ。
「おっ……つつつつ。いったあい。何すんのよう」
泣き声を上げる。顔をしかめ、左の頬を押さえている。
その情けない、でもどこか憎めない姿はさっきまでのフランキーではなく、いつもの、アルフィンのよく知っている彼女(彼)の姿だった。
ジョウがいつの間にか、アルフィンの前に立っている。
今にもフランキーを殺しかねない形相だった。目が剃刀のように細められる。
「何のつもりだ、フランキー。事と理由によっちゃ、お前でも容赦しないぜ」
辛うじて残りの理性をかき集めて、ジョウが口を開く。怒りで声が震えている。相手が知己のフランキーだから一発で済んでいるものの、他の人間ならもうとっくに切れて半殺しにしているところだ。
フランキーは上体を起こして、肩をすくめた。いつもの道化た笑みを口元に湛える。
「べつに。そこのお嬢ちゃんがあんまし可愛いんで、口説いてただけよ」
「!」
「待って!」
フランキーに殴りかかろうとしたジョウにアルフィンはすがった。止める。
「止めて、ジョウ。あたしが悪いの、あたしのせいなの」
ごめんなさい。声を振り絞る。
ジョウの当惑が引き止めた腕を伝わって流れてくる。収まらない怒りが彼の中で渦巻いているのをダイレクトに感じる。
そんな二人を見上げながら、何かを振り払うようにフランキーは立ち上がった。よっこいしょ、わざと年寄り臭く身を起こしながら、
「……最後の最後で、そういういい子ぶるところもきらあい」
と呟く。
ジョウは、隣で恥じるように身を硬くしたアルフィンを見逃さない。
「おい、フランキー。なんだよ。そんなんじゃ説明になってない。ちゃんと言えよ」
ぱんぱん。ジョウの言葉が終わらないうちにフランキーは二度、手を打った。
「はいはい、もうお開きよ。ショーはお終い。見世物じゃないんだからね、さ、散った散った」
適当にあしらう。ジョウも、冷やかすように遠巻きに観ているギャラリーも。
それから、二人に向き直った。
有無を言わさぬ口調で告げる。
「あんたたちも、今夜はもう帰って。出直して。……子供は寝る時間だわよ」
かっとして更に追及しようとするジョウを、アルフィンが押しとどめた。帰ろう、と繰り返す。お願い、帰ろう、と。
唇を奪われたアルフィンのほうが、まるで悪いことをしたかのように退散したがるのを怪訝に思いつつも、ジョウはアルフィンに逆らえない。それくらい必死だったからだ。言い足りない思いを抱えつつ、ふんぎるようにジョウが踵を返す。アルフィンも後を追う。野次馬を縫って出口に向かおうとした二人。その背中にフランキーは言葉を投げる。
「ねえ、お嬢ちゃん」
アルフィンがどきっと歩を止め、振り向く。こわごわ、フランキーの目を見る。
フランキーは腫れた頬を隠そうともせず、腰に手を当て優雅に笑った。
「アタシのキス、どうだった? ジョウとは比べ物にならないくらい上手でしょ? なんなら――」
ぱあん!
頬を打つ派手な音がフロアに鳴り響いた。
一瞬、しんと水を打ったようになる。今の今まで彼らのどたばたには無関心だったギャラリーでさえ、息を呑んで動きを止めた。
ノリのいいBGMだけが空気を読めずに背後でテンポよく流れ続ける。
ジョウが拳を振るう間もなかった。アルフィンがフランキーを張った。それも、ジョウが殴ったほうの頬を。
フランキーが唇の端を舐めた。赤い舌先が覗く。
笑みを崩さず、
「……けっこう効くわね」
と呟いた。
アルフィンは冷たく言い放った。
「今のでキスは帳消しにしてあげる。分かった?」
フランキーはごつい肩をすくめた。
「……おっけー」
「いこ、ジョウ」
「あ、ああ……」
金髪を翻し、アルフィンがドアを押して出て行く。ジョウはまだ気が収まらないようだったが、しようがなく、無理繰り腹の底に苦いものを押し込めるようにしぶい顔をして後に続いた。
数歩、行きかけて、足を止める。
「見損なったぜ、フランキー」
フランキーの方を見もしないで言い捨て、ジョウも店を後にした。
ドアが閉まると、またもとの喧騒がフロアに戻ってきた。それでもフランキーをいたわってか、さざなみのように客たちの会話のトーンは控えめだ。
「……あーあ、やっちゃった」
フランキーは自嘲した。ブラウスの肩が冷たい。今まで濡れているのにも気づかなかった。せっかくジョウが持ってきてくれたのに。もったいないことしちゃったわ、マティーニ一つ。
腕に滴る透明な液体を、ぺろりと舌に載せてみた。
「どうしてアタシってばこう、最後の最後で悪役ぶっちゃうかなあ」
とんだ貧乏くじね。ジョウに嫌われたかな。
はは、と空笑い。
災難だったな、とか、若い子をあんまからかうんじゃないわよ、とか、無責任を装ったギャラリーから声がかかる。指笛を吹き、拍手しているヤツもいる。どれもこれも馴染みの、常連の顔だ。
フランキーはそれらをいなしながら、さきほどまで立っていたステージに悠々と向かう。
「ありがと、ありがと。お騒がせしたわね。お詫びってわけじゃないけど、もう一曲いいかしら?」
歓声が上がる。拍手も大きくなる。後押しを受けて、フランキーの瞳に力が蘇る。胸を張る。
「ようし、今夜はトコトン歌うわよう! じゃんじゃんリクエストして頂戴。飲んで、夜通し騒いじゃおう!」
いいぞ! そうこなくっちゃ、フランキー! そんな声を背に、フランキーはひらりとステージに上がる。バックバンドに声をかけ、旧式のスタンドマイクを握った。照明が入る。フランキーが一番好きな色、そして自分を一番綺麗に見せる色だと信じて疑わない深いパープルが、彼をきらびやかに包み込む。
カウント。
―― ま、いっか。あの子とキスしたってことは、ジョウと間接キッスしたってことだもんね。
にんまり。紫の光の中、不敵に笑ったところで緩やかに前奏が始まる。
ここは楽園。楽園という名のバー。
ここではアタシが女王様。
ねえ、女王様からひとつご忠告。この店にはカップルで来ちゃいけない。
ましてやアタシの目が黒いうち、目の前でいちゃつこうものなら、このアタシが許しちゃおかない、覚悟して――。
<END>
2007年初出
なつかしの、愛すべき性別不明のクラッシャ-が出てきます。ダイバーシテイの現在、コンプライアンス的に表現がアウトかなと思うところもありましたが、初出のまま、書いたときのキャラクターへの愛情のままアップします。ご了承ください。
⇒pixiv安達 薫
ジョウは、フランキーだけでなく、他の男にも絶対モテるはず😁
P.S.なんと!イブニング新作として「連帯惑星ピザンの危機」が始まると知り、そのプロローグが7/13発売号にて掲載されるとの事🎵
私事で申し訳ありませんが、小躍りして喜びぃ~でございます~😆イエーイ👊😆🎵←劇場版ディスコにて😁
確かに、私も「美しき魔王」を待ちに待っていましたので、まさかの「連帯惑星ピザンの危機」でしたからね~ 私的には嬉しかったのですが、あだち様曰くの理由があっても「美しき魔王」はコミカライズして欲しいぃっ💨💨💨