鳥と犬と猫と、ときどき雀

ー鳥2羽と保護犬2匹と捨て猫2匹との生活を綴ったブログですー

八割れ猫・シッポナのお父さん愛が止まらない

2022-08-15 | 猫のこと

 

 

 

 

 

 

 

 

6月の中頃、主人が新型コロナの陽性者になってしまいました。

それは家族もろとも濃厚接触者になったということですが、今なおウィルスは変異を続け生息の幅を広げています。ウィルスと人類の闘いは今後どうなるのかと思います。

しかし元をたどれば自分を含めた人間の利己的で物質的な生き方がもたらした結果ですから、この事実を重く受け止めていきたいと思いました。そして利己的で物質的な生き方を変えなくては!思える機会が得られたことをありがたく思います。

 

さて陽性者になると隔離生活が余儀なくされますが、ホテル療養にするか自宅隔離にするか選択があるみたいです…ですが沢山の仲間(鳥や犬や猫たち)がいる我が家では、みんなでホテル住まいは難しいので、昨年春から単身になり空になっていた息子の部屋を隔離部屋として位置付けました。

ごく身近な存在ですから誰が感染していてもおかしくない状況なので、動ける人が動いて乗り切ろうということになりました。

 

その沢山の仲間の中で、八割れ猫のシッポナはお父さんが大好きです。いつもお父さんの側で寝転んだり撫でてもらったり頭突きをしています。(猫の頭突きは大好きであることの表現といわれています)

大好きなお父さんが居るのは分かっているのに、全然姿を見せないのが寂しいのか?お父さんに撫でてもらいたいのか?小さなぬいぐるみの貢物を運んだり(猫は大好きな人に貢物をするといわれています)鳴いて呼びます。面白いことに初めは甘えた声で鳴くのですが、出てこないお父さんに腹をたててか?だんだんと怒りの声に変わるのです。

いつもはやんちゃなシッポナですが、こんなにも愛情深いことがこの一件で分かりました。そういえば家族が床に寝転んでいたりすると(休んでいるのですが)、必ず寄って来て頭をスリスリしてニャ~と鳴くのはシッポナです。

 

動物たちも人間の様子を伺って慰めようとしたり励ましてくれたりするのです。単なるペットではなく本当に大切な仲間なのだと思います。

そんなシッポナの姿から自分の愛について考え、シルバーバーチの言葉から本当の愛とは何かについて考えてみました。(*1)

以下、シルバーバーチが示してくれた数ある愛についての教えの一つを抜粋します。

 

「気が合うというだけの友情、趣味が同じということから生まれる友愛から、自己を忘れて人のために尽くそうとする崇高な奉仕的精神に至るまで、愛はさまざまな形態を取ります。

地上では愛(LOVE)という言葉が誤って用いられております。愛とはいえないものまで、愛だ、愛だと、さかんに用いる人がいます。ある種の本能の満足でしかないものまで、愛だと錯覚している人もいます。が、私が理解しているかぎりで言えば、愛とは、魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主たる神とのつながりを悟った時に自然に湧き出てくる欲求のことです。

最高の愛には一かけらの利己性もありません。つまりその欲求を満たそうとする活動に何一つ自分自身のためという要素がないのです。それが最高の人間的な愛です。

(中略)

愛の表現形態にもさまざまな段階があります。愛の対象への働きかけという点では同じであっても、おのずから程度の差があります。偏狭で、好感を覚える者だけを庇い、そして援助し、見知らぬ者には一かけらの哀れみも同情も慈悲も感じない者もいます」  

 シルバーバーチのスピリチュアル・メッセージ P225-226 (ハート出版)

 

このシルバーバーチの言葉は耳に痛い言葉です。なぜならシルバーバーチの霊訓を読むまでは愛と言えないものまで愛と思っていたからです。いえ、今もそうなのかもしれません。

例えば、対象に対して言うと…家族や親しい人達、自分が有利になる相手や自分の利益になる人、また自分と関係のある機関や国など必ず自分が中心となった相手をのみ愛する対象としていました。愛の質としては、物的なものを与えることや目に見える援助などをすることが愛だと思っていました。

しかしこうした愛は物的意識そのもので自己愛、利己愛だったということです。シルバーバーチが示してくれた教えのないところでは、本当の愛というのがどういうものなのかを知ることは難しいと思いますし、たとえ知っていても崇高な愛を発現するのは途轍もなく大変なことだと思います。

なぜなら最高の愛には一かけらの利己愛もあってはならないのですから…。

 

本当の愛を持つことが途轍もなく難しいと感じていますが、それでも最高の愛を発露したい気持ちは膨らみます。欲求を満たそうとする行為に自分自身のためという要素がない愛を持ちたいのです。そうした崇高な愛を持てた時の気持ちはどんなものなのか?を知ってみたいのです。

ですから自分が何かをしたときや思ったときに、その動機を良く考えるようになり省みるようになりました。

 

すると見返りを求めていたり、お礼の言葉を求めている自分に気づきます。何かをしたときに何も返ってこないことに不満が湧くのです。それは自分が満足を得るためのもので、愛を錯覚していることなのだと思いました。自分自身のための要素が入っているのですから…。

自分の未熟さに愕然としますが、それでも諦めたくはありません。最高の愛を発露することが地上人生の大きな目的だと思うからです。

そこで「愛とは、魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主たる神とのつながりを悟った時に自然に湧き出てくる欲求」こうした欲求が湧き出てくるための助けとなるシルバーバーチの言葉を抜粋したいと思います。(*2)

 

「一言も発することなく魂の静寂の中で霊が大霊と交わることができる段階まで霊性を磨くことは可能です。そのときあなた方は、自分と大霊とが一つであることを理解します。それがどういうものであるかは言葉では説明できませんが、あなた方や被造世界の全ての霊的存在者の魂が静寂の中で、その霊的感性によって実感することができるのです」    シルバーバーチの教え・上巻 P81

 

神と一体となることで自然と湧き出てくる愛が一かけらの利己性のない愛ですが、自分と神が一つであることを感じるには”静寂の中に魂を置く”必要があるということです。

”静寂の中”として私が思い浮かぶのは、瞑想や祈り、シルバーバーチの霊訓を学んでいるときなどです。そのとき私は地上世界から離れて神や霊界人や霊界に思いを馳せ、宇宙の隅々まで満ちている霊の大海の中にいることや霊力に包まれていることを感じながらするのですが、極ごく稀に一瞬ですが、身近な人も見知らぬ人も誰も可も愛したい思いが湧きあがってくることがあります。誰もがかけがえのない貴重な存在であると感じ、本当の神の姿を知ってほしいと祈るような気持ちになります。

そして、こうした思いが最高の愛というのだと今現在の私は思っています。(いつしかもっと成長したならば、もっと深遠な愛が理解できる日が来るのかもしれません)

 

問題はこうした愛を持続するのが至難の業であるということです。つまりは神と一体となっていることがとてもとても難しいのです。それは肉体という身体で物質世界にいるので、見えることや聞こえてくること、感じることなどがダイレクトに入って来て、なかなか霊的な意識を保つことが出来ないからだと思います。

数十年という間、物的意識と利己愛で生き蓄積してきた意識を取り壊し、霊的意識と利他愛に置き換えていくのですから、それは大変な日々の努力が必要であるのだと思います。出来ないことが遥かに多いですが、それでも大きな目標として自分の心の中心に置いて努力し続けていきたいと思います。

 

なぜなら神は一かけらの利己性のない、自分のための欲求のない思いで全人類を創造し、分霊し、霊的資質である愛や慈悲、親切や優しさ、奉仕精神などの崇高な属性を授けてくれたのです。私たちは神の愛によって創られた存在であり、その愛は今なお続きこれからも果てることがないのです。

その授かった愛の種子を少しでも発露して神の愛に応えていきたいと思います。それが私たちの生きる目的であると思います。

 
 
 
 
 
(*1)  「関東シルバーバーチの会」という、「シルバーバーチの霊訓」を学ぶ読書会のメンバーが「あいのしんこと舎」を設立し、自費出版にてスピリチュアリズムの知識を分かりやすく絵本にしました。

 その中の 「コトとシンのうちゅういちたいせつなおはなし」「コトとシンのうちゅういちすてきなおはなし」には、神についてとその愛についてが描かれています。

(*2)「シルバーバーチの教え」は、スピリチュアリズム普及会で出版されています。

 

 

 

 


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