長く続いた夏の暑さも10月にはいると肌寒い日が増えて秋の訪れを感じるようになってきましたが、それでも今年は特に朝晩と日中の寒暖差が大きいので動物たちも体調を崩さないように気をつけています。
さて季節の変わり目は、気候の変化はもちろん自然界の様々な移り変わりからも感じられます。
夏にはうるさいほどに鳴いていた蝉の声が今は鈴虫やマツムシ、コウロギの声に変り、やがて静まりかえる冬を迎えます。木々や草花も葉を落としたり、休眠したりして冬の寒さに備えているようです。
我が家の動物たちもそれぞれに冬支度を始めています。
アカオウロコインコのマメやコミドリコンゴウインコのナッツは換羽期に入り、大きい羽も小さな羽も産毛のような羽も生え代わりが始まりました。毎回ですが「こんなに抜けて大丈夫なの!?」と思うほど抜け落ちます。
チワワのソイ&ミルキーや八割れ猫のウニ&シッポナも換毛期に入り、ブラッシングするとごっそりと毛が取れます。
誰が教えたわけでもないのに季節に合わせて変わっていく動物たちの体の変化に、神の創造の御業の見事さを感じます。その個体に合わせて一つ一つを創造したのかと思うと、動物だけでなく植物も昆虫も海の生物も、鉱物も空の星や小さな微生物も…この宇宙のすべてが神の愛で創られていることを感じます。(*1)
そして私たち人間も冬に備えて身支度をしますが、この自然のサイクルについてシルバーバーチは驚くことを言っています。(*2)
「四季の絶妙な変化、途切れることのない永遠のめぐりに思いを馳せてごらんなさい。すべての生命が眠る冬、その生命が目覚める春、生命の世界が美を競い合う夏、そしてまた次の春までの眠りに備えて自然が声をひそめはじめる秋。
地上は今まさに大自然の見事な顕現---春、イースター、復活---の季節を迎えようとしております。新しい生命、それまで地下の暗がりの中で安らぎと静けさを得てひっそりと身を横たえていた生命がいっせいに地上へ顕現する時期です。間もなくあなた方の目に樹液の活動が感じられ、やがてつぼみが、若葉が、群葉が、そして花が目に入るようになります。地上全土に新しい生命の大合唱が響きわたります。
こうしたことから皆さんに太古の非文明化時代において宗教というものが大自然の動きそのものを儀式の基本としていたことを知っていただきたいのです。彼らは移り行く大自然のドラマと星辰の動きの中に、神々の生活---自分たちを見つめている目に見えない力の存在を感じ取りました。自分たちの生命を支配する法則に畏敬の念を抱き、春を生命の誕生の季節としてもっとも大切にいたしました。
同じサイクルが人間一人ひとりの生命においても繰り返されております。大自然の壮観と同じものが一人ひとりの魂において展開しているのです。まず意識の目覚めとともに春が訪れます。続いて生命力が最高に発揮される夏となります。やがてその力が衰えはじめる秋となり、そして疲れはてた魂に冬の休眠の時が訪れます。しかし、それですべてが終りとなるのではありません。それは物的生命の終りです。冬が終わるとその魂は次の世界において春を迎え、かくして永遠のサイクルを続けるのです。この教訓を大自然から学びとってください。そしてこれまで自分を見捨てることのなかった摂理はこれ以後も自分を、そして他のすべての生命を見捨てることなく働き続けてくれることを確信してください」 シルバーバーチの霊訓5
同じ春夏秋冬というサイクルが人間の一人ひとりの生命において繰り返されているというのには驚きますが、つまりは私たち人間は「死をもって終わるのではない」ということなのです。
永遠のサイクルを続けるとは「死後も永遠に生き続ける」ということです。
赤ちゃんとして地上世界に誕生し、幼少期、青年期と過ごし、成人し肉体の絶頂期を迎えます。その後、最盛期を過ごし少しづつ肉体は衰えいずれ誰もが死を迎えますが、そこで人生が終わるのではないのです。その後は肉体ではなく、霊の世界でまとう霊的身体へと移行し死後の生活が始まるのです。(*1)
初めてこの言葉を聞いた時には「なんのこっちゃ」と思いました。
私はあまり「死」について深く考えたことがなかったからです。死後はどうなるのかについて疑問さえ抱きませんでした。
よく死後は天国や地獄にいくと聞きますが、そんな感じなのだろうと思っていた程度です。地獄には行きたくないな…と。
そんなことよりも目の前で今まで生きていた存在が動かなくなり荼毘に付されなくなってしまうことが寂しいと感じていました。肉体が消えてなくなることが辛かったのです。
ですから、父親が30年前に他界したときは長い時間悲しみに暮れ、ずっと会いたいと思っていました。
今は死後存続の事実も「死」は悲しいことではないとも理解しています。肉体が無くなっても霊として次元の違う素晴らしい世界で生き続けているとも分かっています。
ですから以前のように長い間悲しみに暮れることはないだろうと思いますが、やはり目の前にあった肉体が無くなってしまうことや触れられないこと、会話ができない寂しさや悲しさは感じてしまうのだろうと想像します。
また相手によっても 「死」の受け止めた方は違うことを最近になって体験しました。
息子が闘病中に義父が亡くなったのですが、享年94歳で長いこと認知症を患い胃ろうをしていました。家族のこともほとんど分からず、生きた屍とはこのようなことを言うのだと思ったほどです。
その義父が他界したときには重たい肉体から解放されて喜んでいる顔しか浮かびませんでした。「死」とは喜びなんだと心底思いました。
が、一方で息子が今亡くなったら同じように思えるだろうか?とも…。
もちろん辛い病気との闘いは終わりますが、20代前半の志半ばで亡くなり、やりたいことが沢山あったので無念さを感じるだろうと…。正直「死」を喜びとは思えていない自分に気づくこともできました。
知識が実感を伴って自分の精神に刻まれていくには、それ相当の努力が必要なのだということも分かりました。
その努力とは霊的世界が身近な世界で、しかも素晴らしい場所であると得心することだと思います。
「誰もが死後にも生き続けること」や「死後の世界の素晴らしさ」、「地上世界は霊的成長の一時的な訓練の場所であること」や「自分が霊的存在であること」、「再生の事実」や「神の摂理の完璧性」を心から確信し納得して精神の一部にすることだと思います。
そして思うのは、悲しみこそが物的世界において魂を目覚めさせる起爆剤であり、それが真意なのだと思ます。”
静寂の時間をもって身の周りにひしめく霊的世界やその存在者への実感度を高めていくこと、そして知識を得てそれを日常に活かして自分が霊的存在として相応しい日常を過ごすことが必須だと思います。(*2)
「知っているということと、それを応用することとは別問題です。知識は実生活に活用しなくてはなりません。死を悼むということは霊的知識が実際に適用されていないことを意味します。地上生活を地上生活だけの特殊なものとして区切って考える習癖を改めなくてはなりません。つまり一方に物質の世界だけに起きる特殊な出来ごとがあり、他方にそれとはまったく異質の、霊的な世界だけの出来ごとがあって、その二つの世界の間に水も漏らさぬ仕切りがあるかのように考えるその習癖から卒業しなくてはいけません。あなた方は今そのままの状態ですでに立派に霊的な存在です。死んでから霊的になるのではありません。違うのは、より霊的になるという程度の差だけであって、本質的に少しも変わりません。あなた方にも霊の財産であるところの各種の才能とエネルギーが宿されているのです。今からあなたのものなのです。肉体に別れを告げたあとで配給をうけて、それを霊体で発揮しはじめるというのではありません。今日、いまこうしている時からすでにそれを宿しておられるのです。言わば居睡りをしながら時おり目を覚ます程度でしかありませんが、ちゃんと宿していることには違いありません。霊的知識を手にしたあなた方は人生のあらゆる問題をその知識の光に照らして考察し、そうした中で霊の所有物、才能のすべてを発揮できるようにならなければなりません」 シルバーバーチの霊訓3
絵本は全部で「コトとシンのうちゅういちたのしいおはなし」 「コトとシンの10のどうして?」 「コトとシンのうちゅういちたいせつなおはなし」 「コトとシンのうちゅういちすてきなおはなし」
「コトとシンのうちゅういちふじぎなおはなし の五部作です。
どの絵本にも霊的真理の基本が描かれています。「死後はどうなるのか」「自分とはどういう存在なのか」「神はいるのか」「どうのように生きたらよいのか」…。
人生を導く指南書として子どもから大人の方までお読みいただけます。温かい文章と絵が心に響く作品です。
(*2)「シルバーバーチの霊訓」は、スピリチュアリズム・ブックスから購入できます。
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