集合して、従兄弟のお家でお茶などいただき、古川駅前まで、車で行きました。
家から電車で母の在所に来る時は、ここで降りて、車で迎えにきてもらったりしたものです。
飛騨古川は瀬戸川と白樺土蔵が有名ですね。
ここは私が必ず買うことにしている蒲酒造さんです。
昔、マフラーを落として、気づかないでいたら、ここの方が追いかけてきて、マフラーを渡してくれてから、ずっと買っています。
新宿伊勢丹で出店があったときも、ちゃんと買いました。
飛騨は節句の行事が一か月遅れなので、まだ五月人形が飾ってありました。
ちょうど次の日が皐月の節句の日でした。
さて、飛騨古川まつり会館へ着いて、古川まつりの説明を聞きました。
従兄弟の奥さんはここで観光客相手に説明をしているとのことですが、今日は休みを取って、お客さんとして来ていると言っていましたが、結局、私たちに説明することになってしまいました😅
飛騨のお祭りはなんといっても高山祭りが有名ですよね。
物心ついて、私がそういう有名な観光をしてみたいと言ったときに、おじさんが連れて行ってくれました。
古川祭は高山祭の1週間後、4月19、20日に行われます。
入り口には動と静の文字。
当時の菅総理大臣が掲げた「令和」の文字はここ飛騨市古川町出身で、内閣府で働いていた茂住修身氏で、この文字も茂住氏の書いたものです。
古川祭は、古式ゆかしい神事、御神輿行列が中心となり、「動」の起こし太鼓と「静」の屋台曳きが、二大祭事として加わった三つの行事群からなっています。
飛騨の祭りは神社へ参詣するのではなく、氏の神様と土地の守護神が合一した氏神の神霊が、高いところにある山の神社から年に一度地域内へ降臨される神下ろしの日なので、こらに献供し、慰めなごますのが祭の行事となっています。
4月19日は試楽祭で、「君の名は」で知られた気多若宮神社の本殿で厳粛な神事が執行されます。ちなみに従兄弟が今、気多若宮神社の氏子総代を務めているそうです。
闘鶏楽の鐘の音が鳴り響く中、御神輿へ御分霊が移されます。
一方で、御神輿を迎える準備として、各屋台がそれぞれの町内を曳行します。
神輿行列は神楽、雅楽、闘鶏楽、獅子舞、それに案内役を意味する各屋台に代わって、台名旗(屋台の名称を書いた旗)が連なります。
19日の夜は裸の男たちが大太鼓を載せた櫓をかつぎ、激しくぶつかり合いながら、町を駆け巡ります。
昔は夜10時から朝方にかけてやっていたので、寝ている人を起こすということで、起こし太鼓というそうです。
屋台の上に乗っている人が、ほぼおじいさん💦
名誉職で一生に一度あるかないかの大役なので順番もなかなか回ってこないのでしょう。やっぱり地域に貢献している方が選ばれるそうです。
何も付けず、棒で組んだ櫓の上にただ立っているだけなので、相当の脚力とバランス能力が必要です。
山仕事や農業で鍛えてきた賜物ですね。
起こし太鼓のペアは背中合わせでサラシを巻いて2人繋げています。
なんだか両面宿儺を思い出しました。
高山祭は大太鼓はあると思いますが、こうやって櫓に乗ってたたくのはないと思います。
このお祭りの形態、令和になった年、まさしく5月2日に、飛騨一宮である水無神社の大祭でも見ました。これと同じ類のものでしょうか。あ、でもこちらは神社に参詣するタイプですね。古川祭りのほうは、神下ろしだと説明がありましたから、違うのかな。
闘鶏楽の鉦を鳴らした若者が水無神社に集まってきました。どこどこ神社、着きました〜、みたいな放送がかかっていて、四方八方から、その神社、神社の氏子さんたちが集まってきていましたよ。
みんなここに(御年大神)にご挨拶に集まるのだなぁと思って見ていました。
ここの神様は母の実家の近くの神社は、水無の神様のお母さんの実家と聞いています。ちなみにその神社は大歳神社です。(これはうちの母だけの言い伝えなので真偽は不明笑)
古川まつりのほうが夜通しなので、派手ですけれども。
ちょっと脱線してきましたので、元に戻します。
そして、その後はまた黒内に戻り、朝霧の森というところを案内してもらいました。
幻想的な美しい森です。
母が足が悪いので、少ししか歩きませんでしたが、30分ほどのハイキングコースになっていて、薬草を育てているところもあるそうです。
そして、宿は季古里というお宿で、みんなでお食事しました。
温泉にもまた入って、泊り客もまあまあいましたが、運良くいつも温泉は貸切状態で、よかったです。
次の日は両面宿儺の千光寺へ行きました。
続きます。