本日は初めての通し稽古だ。
いままでは、各パートパートで小返ししていたのだが、本日に限っては最初から最後まで止めずに稽古。
簡単に言えば身内の中での初めての本番なのだ。
それなりに、身内の客が来て、身内の品定めが始まり、身内の講評が出来る。
そう、いままで一緒のシーンに出ていなかったパートを初めて観て、講評することが出来るのだ。
講評とは…、「指導的な立場から、理由などを述べながら批評を加えること。また、その批評。」とある。(yahoo辞書より)
そもそも、お芝居に正解なんてものはない。
お客さんが、“好い”か“酷い”かを判断するだけだ。
中間なんてない。
○か×かどちらかだ。
うーん、よかったけどもう少しだね。なんてお言葉は、要はよくなかったといっている。
感動した時は、よかったよ以外の言葉はない。
つまり、それ以外はよくないのだ。
そのよくない理由を探すのが楽しいのだ。
「練習不足」なんてことはよくない理由にはならない。
それはつまり、練習すればよくなる可能性があるからだ。
最終的には人間批判になるのだ。
「きっと彼にはそんな感覚がないのじゃないかな?」
とか、
「まあ、根本的に考え方を変えなければならないね」
とか、
「なんか、見た目ダサいねん」
など、グウの音も出ない感じで“講評”する。
まあ、言い方は違えど、大体そんな事を言って、自分の至らなさにふたをするのだ。
そう、言ったもの勝ちのところがある。
まあ、全員ではない。
ただ、講評というのは楽しい。
とっても楽しい。
ふふふ
ふふふ
出来れば、聞こえないところで言って欲しい。
って言うか。講評なんてしないで欲しい。
するのは、自分だけでいいのだから。
まあ、今回の総評は、
「一ヶ月前にこの出来なら、楽しみやね」
だった。
よく捉えるなら、ほめてくれているし
悪く捉えるなら、よかったとは決して言ってないのだ。
まあ、あと一ヶ月、講評を聞き続け、言い続けるのは間違いない。
いままでは、各パートパートで小返ししていたのだが、本日に限っては最初から最後まで止めずに稽古。
簡単に言えば身内の中での初めての本番なのだ。
それなりに、身内の客が来て、身内の品定めが始まり、身内の講評が出来る。
そう、いままで一緒のシーンに出ていなかったパートを初めて観て、講評することが出来るのだ。
講評とは…、「指導的な立場から、理由などを述べながら批評を加えること。また、その批評。」とある。(yahoo辞書より)
そもそも、お芝居に正解なんてものはない。
お客さんが、“好い”か“酷い”かを判断するだけだ。
中間なんてない。
○か×かどちらかだ。
うーん、よかったけどもう少しだね。なんてお言葉は、要はよくなかったといっている。
感動した時は、よかったよ以外の言葉はない。
つまり、それ以外はよくないのだ。
そのよくない理由を探すのが楽しいのだ。
「練習不足」なんてことはよくない理由にはならない。
それはつまり、練習すればよくなる可能性があるからだ。
最終的には人間批判になるのだ。
「きっと彼にはそんな感覚がないのじゃないかな?」
とか、
「まあ、根本的に考え方を変えなければならないね」
とか、
「なんか、見た目ダサいねん」
など、グウの音も出ない感じで“講評”する。
まあ、言い方は違えど、大体そんな事を言って、自分の至らなさにふたをするのだ。
そう、言ったもの勝ちのところがある。
まあ、全員ではない。
ただ、講評というのは楽しい。
とっても楽しい。
ふふふ
ふふふ
出来れば、聞こえないところで言って欲しい。
って言うか。講評なんてしないで欲しい。
するのは、自分だけでいいのだから。
まあ、今回の総評は、
「一ヶ月前にこの出来なら、楽しみやね」
だった。
よく捉えるなら、ほめてくれているし
悪く捉えるなら、よかったとは決して言ってないのだ。
まあ、あと一ヶ月、講評を聞き続け、言い続けるのは間違いない。
ぴぃーっ
観て感じたこと思ったことを言うのは 少し簡単なんだよね。自分に置き換えると・・・出来てたら悩んでへんわ!!!って言うだろう(汗)
良いようにとってね。つまり、あんたにはまだまだ道が残されているわけさ。
正解もなけりゃ 完璧もない だから もっともっととがっつける。