本日は各役者に対してのくさし合い、いや、ほめ殺し、いや、正当化、いや、ねぎらい、いや、うーん、いろんなもろもろのことのはなしあい。
まあ、なんでもいいのだ、いいたいことをいってやっているのだ。
どのような芝居であれ、100パーセントというのはないものだ。
それは劇団としても、役者としても、当然観客としても…。
次へ繋がる課題というのは、自分自身が一番よく分かっているし、それを指摘される事が一番つらい。
どちらかというと、自分では気づかなかったよかった点や課題を指摘してもらいたいものだ。
しかし、そうは問屋が卸さない。
自分でも気づかない事を、そうそう他人が気づいてくれる訳はない。
自他共に分かっている事を、わざわざ披露されるものである。
結果として まあ、個人のストレスを解消したり、はたまた溜めたり…になる。
ましてや、予測不可能な欠点を指摘されたりすると、弁のたつものはそれを正当化することに時間が費やされる。
往々にして、堂々巡りの論議が繰り返されることになる。
しかし、
とても不毛な論議のように受け取られるかもしれないが、これはとても大切な事なのである。
重要なのは、意見交換の場があるということである。
発言する・しないは個人の自由だ。
当然、弁のたつ・たたないあるので、その中での主張の強いものの独壇場にならない事もない。
しかし、それはそれでいいのかもしれない。弁がたったからといって、別に全体がその意見に流されているわけではないからである。ただ、”それは、ちがうやろ”とおっもていても、様々な要因が重なりわざわざ意見しなかったりするのである。
理想を述べれば、"次公演に向けての具体的な改善策”がひとつでも集約されて、その次の合評会でそれが達成できたか否かを論議できればいい。
理想は理想である。
現実は現実である。
まあ、多少傷つけられようが、悔しい想いをしようが、変な話“人間は忘却できる生き物”である。それでも気がすまないのなら、別の方法でギャフンと言わすしかない。
”議論で勝てないものが確実に勝つ手段”を故中島らも氏が述べていた。
――まずは、相手の意見をよくきく。
それから一言「どうでもいいけど、あなたの口くさいよ」と言い放つ。
これで文字とおり口をふさいでやるのだ。――
他にもいろいろ手段があった。興味のある人は読んで下され。
まあ、なんでもいいのだ、いいたいことをいってやっているのだ。
どのような芝居であれ、100パーセントというのはないものだ。
それは劇団としても、役者としても、当然観客としても…。
次へ繋がる課題というのは、自分自身が一番よく分かっているし、それを指摘される事が一番つらい。
どちらかというと、自分では気づかなかったよかった点や課題を指摘してもらいたいものだ。
しかし、そうは問屋が卸さない。
自分でも気づかない事を、そうそう他人が気づいてくれる訳はない。
自他共に分かっている事を、わざわざ披露されるものである。
結果として まあ、個人のストレスを解消したり、はたまた溜めたり…になる。
ましてや、予測不可能な欠点を指摘されたりすると、弁のたつものはそれを正当化することに時間が費やされる。
往々にして、堂々巡りの論議が繰り返されることになる。
しかし、
とても不毛な論議のように受け取られるかもしれないが、これはとても大切な事なのである。
重要なのは、意見交換の場があるということである。
発言する・しないは個人の自由だ。
当然、弁のたつ・たたないあるので、その中での主張の強いものの独壇場にならない事もない。
しかし、それはそれでいいのかもしれない。弁がたったからといって、別に全体がその意見に流されているわけではないからである。ただ、”それは、ちがうやろ”とおっもていても、様々な要因が重なりわざわざ意見しなかったりするのである。
理想を述べれば、"次公演に向けての具体的な改善策”がひとつでも集約されて、その次の合評会でそれが達成できたか否かを論議できればいい。
理想は理想である。
現実は現実である。
まあ、多少傷つけられようが、悔しい想いをしようが、変な話“人間は忘却できる生き物”である。それでも気がすまないのなら、別の方法でギャフンと言わすしかない。
”議論で勝てないものが確実に勝つ手段”を故中島らも氏が述べていた。
――まずは、相手の意見をよくきく。
それから一言「どうでもいいけど、あなたの口くさいよ」と言い放つ。
これで文字とおり口をふさいでやるのだ。――
他にもいろいろ手段があった。興味のある人は読んで下され。