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2022/11/10

2022-11-10 22:17:00 | 日記
命主社、神魂伊能知奴志神社(かみむすびいのちぬしのかみのやしろ)
出雲大社東側から5分も掛からないところにあります。
ムクノキの巨木に会いたくて行ってきましたが、お社の後ろに遺跡があるのは知りませんでした。あとで調べると寛文5年(1665)の出雲大社御造営にあたり、お社の裏の大石を石材として切り出したところ、下から銅戈と硬玉製勾玉が発見されたところです。

天地開闢の時に現れた造化三神の一柱、神皇産霊神(かみむすびのかみ)が御祭神です。
大国主命は八上姫との結婚を妬んだ兄弟に命を狙われ、命を落とします。
それを悲しんだ母神の刺国若姫は神皇産霊神に懇願し枳佐加比売(きさかひめ)・宇武賀比売(うむかひめ)の2柱が派遣され大国主命を蘇らせたという神話が出雲国風土記に伝えられています。
地元では子どもの成長を見守る神社として、「いのっつぁん」の愛称で親しまれ、子どもが生まれて100日目に親子揃って参拝するという風習があるそうで、NHKの番組で見た記憶があります。

島根県出雲市大社町杵築東
2022.11.04 参拝


















千光寺公園へ

2022-05-06 20:54:00 | 日記

千光寺公園には花見で何度も訪れていますが、いつも時間がなくて駐車場のチケットの割引券を使ったことがありません。
今回はフジフイルム・フォトコレクションの展示と新しくなった展望台を見るのが目的なので割引券全て使ってしまいます。(発想が貧乏臭いw)

桑原史成≪"生ける人形"とも言われた少女<水俣>より≫1966年と記されています。
チケットを受け取ったときはただただ美しい瞳に魅了されたのですが、水俣の文字を見過ごしてしまいました。
5歳の時に水俣病で突然寝たきりとなり、不動無言で18歳の生涯を閉じたそうです。
知っていたカメラマンは8人か9人くらい、見たことがある写真は確実なのは林忠彦の「太宰治」と木村伊兵衛の「秋田おばこ 秋田・大曲」、多分見たことがあるのが、星野道夫「夕暮れの河を渡るカリブー」(実物を見ると水しぶきがプリズムの様に光を分光してカラフル)。
警備員と猫の攻防で有名な尾道市立美術館。
猫のオブジェがお出迎えです。

新しい展望台の西側螺旋階段が見えてきました。右側に見える売店でソフトクリーム購入して、食べながら展望台を散策。





東側の階段は四角、エレベーターが通っています。

尾道城の跡にできた展望台を目指しましたが間違ってここでストップしてしまいました。ここ前にも来たことあるなと思ったのですが、スマホの電池切れで確認できませんでした。
この先少し進むと「千光寺公園 視点場」、目的地でした。
尾道城は父が若い時に工事に参加した建物で屋根の反りを鉄骨で表現するのが難しかったとか、完成したとき確か大晦日か何かで、打ち上げのバーでお客さんが少なくて暇を持て余していたホステスさんのサービスが良かった思い出話を聞いたことがあります。
また父を偲んで訪ねてみようと思います。

ティク・ナット・ハン

2022-01-23 13:43:00 | 日記
ティク・ナット・ハンがお亡くなりになったそうですね。

トーマス・カーシュナーの『禅僧になったアメリカ人』を読んでいて、ティク・ナット・ハンのティクの意味を知りました。

「富士山にちなんで、山中[宗睦]和尚が命名してくれたのが釋雄峯、私の僧名である。
和尚は修行時代、臨済寺専門道場でひとりのベトナムの僧侶と知り合った。彼の話によると、ベトナムでは出家すると百パーセントみなティックという名を戴くのだという。
ティック、つまり釈尊の釈の字、それを聞いて、山中和尚はいい習慣だなあと思った。だから私の僧名につけたのだと、そんな命名の由来を聞いた。」

Wikipediaにティク・ナット・ハン、釈一行とあるのはそういうことだったのかと気がつきました。Thích[釈] Nhất[一] Hạnh[行]と漢字に対応しています。
釈から始まる戒名と似ていますね。
ベトナム語は中国語の影響が強く単語の6〜7割が漢字に由来するそうです。

現臨とは

2022-01-21 21:29:00 | 日記

シタテルヒコさんの現臨がどういうニュアンスを持つことばなのか気になって調べてみました。

現臨といわれても、ぱっと意味が分からないので、翻訳語として作られた感じがしますが、'Real  Presence'の翻訳語として使われているのを見つけました。

これがどういう意味合いかは後で書くとして、現臨ということばでまず最初に浮かんだのはハイデガーで臨在と訳されていたギリシャ語、パルーシアπαρουσίαでした。ウーシアουσίαはエイミεμί[ある、存在するを意味する動詞]の現在分詞に抽象化の接尾辞-ίαがついたもの、在ること、存在、実体、本質を意味しますが、パルーシアはこのウーシアに「共に」、「近くに」を意味する接頭辞パラπαρα-が付いたものです。

それでパルーシアを調べてみると聖書で「共にいること」の意味でも用いられますが、キリストの再臨を示すことばでもありました。

ハイデガーはこれをAnwesenheitと独訳していますが、臨在の他に現前[目の前にあること]と邦訳されています。

彼ががキリストの再臨を意識しないでこのことばを使っているとは考えられないと思って調べると、辻村公一がそのものずばりを指摘しているのを見つけました。ハイデガーが『存在と時間』を思索することとなった根本経験に二つあり、一つは「存在の忘却の根本経験」、もう一つがパルーシアに関わるもので、こう記されています。

「すなわちハイデッガーは、 その箇所を筆者は今忘れてしまって指摘できないが、次の如きことを書いている。 すなわち『私の思索の道に稲妻のような閃き (Blitz) があったとすれば  それは"ウーシアουσία"の内に"パルーシアπαρουσία" 閃いたということである』と。"パルーシアπαρουσία"は、それのうちにハイデッガーが生れ育ったところのキリスト教の信仰に於ては、終末に於けるキリストの再臨を意味しており、そのことを彼は熟知しているが、そういう意味は表面には現れておらず、『現臨、現在、現在性』(Präsenz, Anwesen, Anwesenheit)  、ここでは意味する。」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/tja1948/51/1/51_1_1/_pdf/-char/ja

ここでもパルーシアの独訳のPräsenz(英語でPresence)の邦訳として現臨が出てきました。

ここで最初にわたしが現臨で検索して出てきた"Real Presence"に戻ると、これはミサのときパンと葡萄酒がキリストの体と血に変化するとき、それは霊的に現実的に存在するという解釈を示すカルヴァンのことばでした。

https://kanai.hatenablog.jp/entry/2012/08/16/172444

つまり現臨はキリストが再び私たちと共にいてくださるという意味の再臨と、ミサに於いて聖変化するパンと葡萄酒にキリストそのものの存在が共に在ることを意味することばの翻訳語として用いられていたようです。


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2022.01.30追記

シタテルヒコさんの定義が2016.07.06のブログにあったので引用します。

「心霊学などで守護霊と言われている霊的存在とされるものがありますね。

私は霊能者でないので、見たことも無いし、声を聞いたことも有りません。

何時も触れていますが、私が現臨(やたらとこういう表現をしますが、根本的に曰く言い難いもので、リアルに意識にアリアリと臨むあるもののことを、こう言っているのです)に捉えられるとか、声なき声を聞いたとか言っているのは、そういう事とは全く違う事を言っています。

これは意識状態の変容を伴っているという事であり、この現臨が臨んだ時、通常では見失っている自分自身を取り戻す、という感覚を覚えます。

つまり自分自身と現臨とは別在しているものでは無いのです。

現臨というのはキリスト教神秘主義でたまに使われているのを借用しているのです。私的にピッタリするので大衆的にはスルーだろうけど