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フーマンの見た出口王仁三郎

2022-01-19 03:08:00 | 日記

「人生の裏側」を過去記事から読んでいますが、 2015.3.21 出口聖師 にこんなふうに記されています。

"ハワイで活躍していたマスター、フーマンによれば、今まで日本の歴史上出現した中で最も偉大なマスターは、出口王仁三郎だと言います。

私はこれを知って、直接その話を聞いていたキヨタカさんと同じく「へえそんなものですかねえ?」と思わざるを得ませんでした。"

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わたしも清貴さんの本のこのくだりを読んで、空海も法然・親鸞もいるのに、そうなの?と思いました。

のちに四方庵にプンジャジの『覚醒の炎』を寄贈されたアキラさんとmixiで友人になり、彼のブログ「瑞霊に倣いて」の2021.8.19の記事を読んでいたら似たような話があって不可思議の念に打たれました。

------以下引用------

*今日は旧暦712日で、出口王仁三郎聖師の生誕日であり、新宿区上落合の道院・紅卍字会 日本総院では、 霊績真人兼中和成化普渡天尊誕日祭典が行われました(「霊績真人」とは、出口聖師のことです)。道院では求修して修方となったものは、死後は祀霊室に祀られることになっているのですが、出口聖師は別格に扱われています。

*出口王仁三郎聖師は、扶乩(フーチ)によって、この世で唯一人、最高神である至聖先天老祖(太乙老人)から直接に内流を受けている人物と告げられていましたので、このような特別の扱いがされています。出口聖師のような最高位の境地に達していると告げられた人物は、他には誰も、中国本土にもいません。かつて弘法大師空海が長安で恵果阿闍梨に会われるや、他の全ての中国人の弟子を差し置いて、空海一人に真言密教の全てが伝授されたことが思い出されます。


ストームの思い出

2022-01-16 21:49:00 | 日記
(2019年7月21日の日記より)
"【アメリカ】ナルト走りでエリア51に侵入してエイリアンを確認するイベントに180万人が参加表明する異常事態に 2019/07/20" という記事を見ました。
アメリカ・ネバダ州にあるエリア51に『ナルト走り』で急襲し、エイリアンの存在を確かめようというふざけたイベントなのですが公式サイトもあるようでこちらになります。
Storm Area 51 
https://www.stormarea51.us/
[リンク切れ]

「ストーム?! ストームって… そういえば学生時代にストームってあったな。」 
30数年前のことで記憶があやふやなので検索してみると、Wikipediaにストームの項目がありました。 
>「バカ騒ぎ」を基本とし、窓ガラスを叩き割るなどの破壊行為にまで至ることも少なくなかった。歓迎ストーム・返礼ストーム、街に出て気勢を上げる街頭ストーム、巨大な火を焚きそれを囲んで行うファイヤーストーム、夜中に入学の抱負などを言わせ説教のようなものを続ける説教ストームなどもあった。
--------------------------引用終わり
大学で木造の学生寮に入ってそこでストームの洗礼を受けたのですが、時々酔っ払いが一升瓶を持って、無理やり酒を飲ませて各部屋を廻ってゆくのを、そう呼んでいました。 
ドンドンドンと扉を叩いて、すぐに出ないと扉が壊されることもあるので、ストームが廻って来ると、扉を開けて待ちうけ、勧められるままにお酒を受けて、何事もなく嵐が過ぎ去ってくれるのを祈るばかり。 
そういえば入寮して新人歓迎会でお酒を飲まされ酔いつぶれた人が何人か出てくる頃、「女子寮にストームに行くぞ」の掛け声で、鉄筋コンクリートの新築の女子寮に向かうと、もともとそういうスケジュールになっていたようで、ちゃんとお酒とおつまみが準備されていて、女子寮生が接待してくれたことを思い出しました。 
あとで教授にストームの話をしたら、教授もストームの経験があると言い、旧制高校以来の伝統があるのを知って苦笑。 
何かのエッセイで昔のストームの話を読んだ記憶もあるのですが、もうどんな話だったのか思い出せません。
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ここから現在の時点での追記になりますが、井上忠についての論文を見ていたらストームのことが記されていました。
「入学後も『ストーム』といって,就寝中に先輩たちが部屋に乱入し,新入生たちを叩き起こして,怒鳴ったり寮歌を高唱したり,演説や説教をしたりするという習慣があった.
17 歳の井上も,初めて親元を離れ,全国から集まった学生たちとの,この濃密な共同生活に入った.
それまでの自分が『どんなにむなしいものかいやというほどたたきつけられ』るような経験をしたのであろう. 広島県の『大秀才』だった井上が,一高の学生たちの中で揉まれ,精神的自立そして知的自立への第一歩を踏み出したのである.」

そろそろ人生も黄昏れてきて、死語になりそうなむかしの学生文化の有様を表すことばの体験者として、ささやかな記録を残しておきたいと思いました。


井上忠の超越体験

2022-01-16 02:48:00 | 日記
下照彦さんの宗教体験が興味深いので、ブログ「人生の裏側」を最初から時系列に沿って読んでいるところなのですが、玉城康四郎、マイスター・エックハルト、実存など、かつて哲学徒であったわたしには懐かしいことばに暗い青春を思い出し、胸が熱くなりました。
玉城康四郎は雑誌『理想』での井上忠との対談で知ったように記憶しています。はっきりと断言できませんが、同じく『理想』の1984年12月号、聖書特集で井上忠が自らの宗教体験を明らかにしたことが二人の対談の切っ掛けになったのではないかと想像しています。
学生の頃、夜の研究室でよく時間を潰していました。そんな夜、ブーバーの研究家の稲村秀一先生がやってきたので、井上忠さんの体験談の話をしてこの雑誌を渡しました。いま稲村先生が唸るようにこの記事を読んでいた風景が甦りました。
以下その談話の引用です、

二冊の「本」

井上 忠


 そこの棚にボロボロになったヘブライ語の旧約聖書と、ギリシア語の新約聖書がありますね。別に珍しい版本でもありませんが、ほら、この扉に「昭和十九年九月十八日 神田にて求む」と記入がありましょう、当時とにもかくにも手に入れることのできた本です。ただこの二冊の本を買ったいきさつをお話させていただこうと思います。
 元来、聖書ともキリスト教ともなんの関わりもない環境でわたしは生まれ育ちました。両親がともに教員だったので、生後四十一日目から小学校にあがるまで、わたしは昼間のあいだ、生家と背中合わせの隣だったNという老人夫妻にあずけられて子守してもらいました。このじいちゃん・ばあちゃん(幼いわたしはそう呼んでいました)が、土地柄、熱心な安芸門徒で、質朴な信心そのものの暮らしぶりをしており、ことにお爺さんは剛気な風貌を残しながら、ほとんど妙好人といっていい人柄でした。

 幼いわたしに、死と死を超えるものへの感覚が芽ばえはじめたのは、そうした日々のうちからでした。こんなこともありました。数え年五歳と六歳のとき、一度ずつですが、夢に阿弥陀さまが現われて、お前は五つで(次の年には、六つで)死ぬと言われ、ひとりで死ぬ淋しさ怖さに夜中に目覚めてふるえました。どちらの時か忘れましたが、たまりかねて父に訴えますと、いつも優しいひとなのに、「神経質な子だねえ」と言っただけだったので、子供心にも、自分の死の切なさが、そんなにありきたりの一言で片づけられるのに、なんだか肩すかしをくった意外感を禁じえませんでした。

 もっとも開明家の父は坊主臭い「宗教」が真っ向から嫌いだったらしく、若くして歿した父の先妻の墓は、戒名など一切なく、俗名のままで今日でも中国山脈の奥懐に立っており、鉄道もない大正期には、草深い習俗の里にさぞ異彩を放っていたことでしょう。

 むかしの高等学校、いまの駒場へ入りまして、青春お定まりの「人生の悩み」が始まりました。もっとも艶っぽい話にはなりません。人生って何だ? 自分では「大いなる価値転換」のつもりでも、跡を辿ればなんのことはない、ニーチェ、ショーペンハウエル、カントと、まずはデカンショ・ラインです。一新した風景を背に親鸞も懐しい想念の故郷として姿を現わしました。
 しかし、この時期の極めつけは、自己とは何か? といった悩みでした。そしてこの問いは、疑問とか煩悶とかであるよりも、「自己」というコトバヘの執着、あるいはむしろこのコトバの魔術による呪縛であったようです。本を読もうとしても、なにか論じようと思っても、自分が何か分かってもいないのに、どうしてそんな呑気に「解説」をわがもの顔にできるのか、自分になんの権威があって、何がどうのと言葉を語り紡ぐことができるというのか。夜も昼もわたしにはこの台詞がまつわりつき、「現実を受け容れることは不可能であり、しかも同時にそれを受け容れないことも不可能である。……もはや壁に頭を打ちつけることしか残っていない」状況でした(引用はシェストフ「アントン・チェホフ」の一節ですが、この一句は、「無門関」の「この熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又吐き出さず」とともに、当時のわたしの究境をもっとも的確に描破したものとして、忘れられません)。
 「自己」の一語は、全現実を崩落させ、事実としての自らの死をも退けて、絶望の永劫を垣間見せる想いでした。魂の永遠は、希望の明るさとしてではなく、死の事実をもってしても侵すことも、無化することもできぬ絶望の深淵として、まず現前してきました。それはわたしが人生で初めて出遭ったのっぴきならぬ原点でした。のちにわたしの書いた小さな記念碑「イデアイ」のなかでも、「眠るものは絶望者ではない。喰ふものは絶望者ではない。行動は逃避である。およそ事実に、おのが肉体なる事実にすら、妥協するものは、絶望者ではない。絶望は、一切の事実よりおのれを異ならしめ、ただ永遠に一貫して自己自身であらうとする凝縮の一点である」として、この原点が、結局わたしの哲学の出発点となったことを示しています。
 むろんこの「絶望」方式は、キルケゴールの「死にいたる病」と同じ途を辿ったものです。岩波文庫に入っていたこの本も、当時の書籍事情で、とてもおいそれと入手できませんでした。偶然、この貴重な一冊をもっていた友人のI君から借りて、大学ノートに写してゆきました。一字一字が岩を刻む思いで、わたしの魂に響きつづけ、絶望の暗さと確乎さはついに写本する手すら凝結させました。眼すら見え難くなりました(そのとき何も言わず、母が写本をつづけてくれました。ですからいまも、後半が母の手になるこのノートが残っています)。
 意識してはもはや眠るどころか、肉体をもって呼吸することすらできないと思われる一ヶ月余(「四十日四十夜」が人間の霊肉に対してもつ意味の精確さは恐るべきものです)。四周の世界は影絵みたいに薄墨み、わたし自身も影法師になったようでした。そしてその夕方影法師さながらのわたしは南寮(現東京大学教養学部第一研究室)の屋上で、通気塔によりかかりながら佇んでいました。
 薄墨の世界が一気に裂けました。天地は眩い紫の光に明るく満ち溢れ、人の形に近い巨大な輝く姿が頭上に追ってきました。その時です、まったく予期しなかった声が、わたしの脚下から轟きました。
 「汝の罪許されたり」
 それはわたしが立て籠り、全現実を拒否し、魂の救いを宣べる言葉を排拒しぬいてきた絶対(と見えました)の牙城、絶望を、抵抗するすべもなく一挙に粉砕し、わたしを明るい無条件の自由と歓喜へと解放し去り、もはや一抹の疑惑の余地も残しませんでした。
 思えばあの声は不思議でした。キルケゴールの「絶望」は自分の言葉として了解できても、それを「罪」とする点には、いつも違和感があり、自分を深重の罪人とする親鸞には馴染んでも、キリスト教の意味での罪を自分に引き当てたことはありませんでした(なにしろデカンショ教養程度だったのです)。なのに、あの声は紛れもなく、キリスト教の言語でありました。そして「自己」の抵抗はそれによって跡かたもなく解消されたのです。一九四四年九月十七日の夕景でした。
 キリストの道に歩もう。それには「聖書」がなくてはならない。その折になって思い出したのは、田舎の家からもってきて、吉祥寺の知人の家にあずけてある書物のうちに、ほんの気紛れのように紛れ込んでいた父の聖書です。父がむかし英会話を習った宣教師から貰ったものらしく、父にもわたしにも別に興味もない代物だったのですが、ただ見事な革製天金の「本」というだけの理由でもってきてありました。その「本」がいまや十八歳半ばのわたしに暗夜に輝く灯台のごとくと燃え上がりました。その夜は、しかし、台風のせいらしい嵐となり、吉祥寺に急ぐわたしは、久我山あたりで帝都線が停電で止まってしまい、夜道をずぶ漏れになりながら、「本」にまで辿りついたのでした。
 明くる日は快晴で、なにはともあれ「本」の原書をと、神田の古本屋街にかけつけ、持っていた全財産をはたいて、ヘブライ語とギリシア語の聖書を買い込みました。それがご覧の二冊です。(談)
(いのうえ・ただし 東京大学教授・哲学)


追記

ここで紹介した聖書特集のあとの井上の対談相手は八木誠一でした。

井上忠と玉城康四郎の対談は1975 年(昭和 50 年)10 月 31 日「道元の世界と哲学 」『理想』第513号で、この談話に先立っていますので、わたしの記憶と想定は間違っていました。

井上忠の『根拠よりの挑戦』を読んだ玉城康四郎が対談相手として井上を指名したことにより、この対談が成立しました。玉城は対談の冒頭で「〔井上〕 の問題意識が道元の根本問題と同質的なものだと、ぼくは感ずる」と指名の理由を述べています。

またキルケゴールの『死に至る病』を貸してくれた友人のI君は今道友信のようです。

2022.01.21 


芹沢光治良と道院

2022-01-14 13:14:00 | 日記

(炁楽仙女さんが道院の秘経である鎮心経の解読本を出された頃の日記の転載です。読み返してみてあれからもう七年過ぎたとは信じられない気持ちがします。)

鬼雷さんの鎮心経の話に触発されてWeb探索しましたが、さすがに何の情報も出てきません。

その途中で笹目秀和さんのことについて書いてあるブログに行き当たり、見ていると作家の芹沢光治良さんに会った話があるのに気付きました。

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http://blog.livedoor.jp/lrf6662/archives/39540002.html

「気マガジン」という気功雑誌編集長と副編。

小生と井上球二先生の四人で芹沢光治良翁と対談いたしました。

その時、突然、芹沢翁がせき込んだ。

そして翁は私に「あなたのセキをうけました」と申されました。

そして、「神様があなたのノドを治したよ」とおっしゃいました。

私は何を先生がおっしゃっているのか、一瞬判断に躊躇しました。

私はその頃、郭良気功大師の元に外気治療を受けに、静岡より東京に通っていた。

私は芹沢翁も少しボケたのかなと思った。

手の平療治にしろ、気功治療にしろ、手の平より気を発して治療をするのに、手も使わず、

ただひとこと「神様があなたのノドを治しましたよ」のひとことであった。

そのひとことで、積年の私のへんとうせんは治っていたのである!!

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芹沢光治良は『神の微笑』で知り、これに続く神シリーズが発刊されるたびに夢中になって読んだものでした。高齢になって天理教の教祖と対話したり、庭木と会話する小説を出したので、昔からのファンの人は大変驚いたことであろうと思います。

http://tenmax.sakura.ne.jp/cid21772/2013/03/09/神と話した作家「芹沢光治良」-3-うそと言う名の/

ここに泰山木との対話の始まりの件がありますが、いま読み返しても涙が零れそうになります。

芹沢光治良の名前を見て、彼が道院と繋がっていたことを思い出しました。自伝的小説『人間の運命』に道名を授かった経緯が記されていたのです。どこにあったか調べてみると第十二巻「暗い日々」でした。芹沢光治良は森次郎の名前で登場します。以下引用して見ます。

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 次郎がこの紅卍字会の運動を知ったのは、一郎と北京へ行った時だった。

 或る日、日本大使館の林一等書記官が一郎と次郎に会いたいという、同盟の記者に言伝があって、一等書記官を大使館に訪ねると、北京の紅卍字会が一週間も前から二人を探していたとのことであった。道院のフウチに「森一郎こと真一と森次郎こと映光が、北京に到着するが、この日本の兄弟は、天帝から真一、映光という道名を授けられたとおり、道士であるばかりでなく、平和の使者であるから、歓待し、あらゆる便宜をはかるように」というようなことが出たが、北京の紅卍字会のなかには、森兄弟を知る人がないからとて、林書記官に連絡があったとのことだった。

(中略 翌日道院訪問の場面に移ります)

 これがフウチかと、次郎は好奇心で全身をこわばらせながら、注意を集中した。しばらくして、二人の道士の持った棒が突然そのリズミカルな動揺をとめた。すると、卓子の漢字を書きとどめていた道士の横にかけた道士が、それまで書かれた漢字を文章にして、これまた朗々と読み上げた。しかし、次郎は意味がわからなかった。林書記官が低い声で通訳した。

「天帝老祖はみなが真一、映光をここに歓迎したことを嘉する。真一、映光の道友は天帝老祖が地上に送った平和の使者にして、この二道友が東方日本国より来たるは、この地に和平の来たる証として、みなも喜び祝すべし――と、まあこんな意味です」

「天帝老祖というのは、天帝と老祖ということですか」

「いいえ、機嫌のいい時は天帝老祖と自ら名のるらしいですよ」

 そう話しているうちに、砂の上に赤い毛氈がしかれて、その上に白紙がのべられた。そして、二人の道士が両方から持った棒の中央に、棒の代りに太い毛筆をつないで、たっぷり墨汁をふくませてから、二人の道士はフウチの場合のとおりに、棒の両方のはしを持って、目を閉じた。壁にそって立った数人の道士が、再び音楽的な斉唱をはじめたが、二分もたたないで、棒はするすると左右に動き出して、棒の中央にさがった毛筆が、白紙の上に一気に黒々と達筆に書きあげた。とたんに斉唱はたえたが、全道士が等しく歓声をあげた。

「天帝の書です。めったに天帝の書は授からないので、みな歓喜しているのですよ」

 そう林書記官が次郎たちに話した。道士たちが三人の日本人に感謝の言葉を浴びせている間に、天帝の書が壁にはられた。余りにみごとで、達筆の余り、次郎は読めなかった。

「遥かなる東方より陽光そそぎ、雪霜徐々にとけて、春光地にみつれば、万邦善隣の喜びを寿ぐべし――とでも読むのでしょうか」と林書記官が代って読んで聞かせた。

 次郎はその意味よりも、その書が、壁にはられた他の書と、その筆蹟、運筆の妙等、すべて同一で同一人によって書かれたようなのに注意を惹かれたが、林書記官は、他の道院で書かれた天帝の書もみな同一筆蹟であるから、天帝が唯一の創造神であることが信じられると、話した。

 次郎たちは院長や道士たちに送られて講堂を出たが、広い庭で、道士たちは幾度も次郎たちに握手して、再会を約束させては、別れをおしんだ。今日のフウチと書は、直ちに本部に通知するから、次郎たちが支那旅行中、何れの都市の道院も道士も、兄弟として迎えるので、遠慮なくわが家のように訪ねるようにと、最後に念を押して、門まで送って来た。

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そういえば私も昔炁胞牌(漢字が合っているか分かりません)というのを求めて、そのとき申し込んだ人は笹目仙人が天帝に報告の祈祷?をしてくれるということだったのですが、ひょっとして本当に通じていたのかしらと思う今日この頃です。







芹沢光治良の死について

2022-01-14 10:25:00 | 日記

2014.7.5の日記です。

芹沢光治良の『神の微笑』初版本が届きました。

実はこの本わたしは既に2冊持っているのですが、初版本にある秘密が隠されているという話を聞いたので、自分の目で確認するため、探して求めたものです。

この話は東京大学宗教学年報.別冊. XII , 1995.3.31,pp. 4-5に掲載されたエッセイ、松本「ある不思議な事 : 芹沢光治良氏の死をめぐって. 」に記されていました。

芹沢光治良の死の日付の予言が彼の小説『神の微笑』の中に絶対間違うはずのないところを間違えて隠してあるという天使のメッセージを受け取った方がいたということです。





143頁を見ると、場面は小平教授(仮名)が存命の親様(中山みき)の言葉を伝えるという伊藤幸長(のちの大徳寺照輝)を伴って芹沢を訪ねてきたところ。芹沢の書いた『教祖様』に足らないところを指摘して、新しい教祖伝を書くようにとのメッセージを受け取るところです。

確か松本滋さんが小平教授のモデルではなかったでしょうか?

手に入れた初版本を見ると確かにその間違いがありました。


初版本 昭和61年7月15日印刷、昭和61年7月20日発行

平成5年9月15日 26刷 修正済みです。

松本さんのエッセイでは他に、芹沢光治良が「庭の泰山木との対話」が事実であったと言っていたことなども記されています。

松本滋さんのエッセイはこちらで、ダウンロードできます。

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=30307&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1