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保江情報の精度について

2023-12-20 02:45:00 | 日記
この動画で私も大好きな芹沢光治良について語っていることがどうも記憶と違うので検証してみました。

肺炎で危篤になりルルドの水を飲んで回復したものの結核と診断され療養所生活をしたのはフランス留学時代なので、学生時代に死病の結核に罹ったというのはどうなのかと疑問に感じたのが調べてみようと思ったきっかけです。

保江さんの主張を簡単にまとめると…
仏文学者の(これが既に間違っています)芹沢光治良は東大の仏文の教授になっているるが、東大で仏文の学生になったばかりの時、結核になった。片道の交通費だけ与えられて井出クニ(井出国子)に会って癒され、井出クニによって『神の微笑』から始まる神シリーズを書かされたということですが…

実際は仏文でなくて仏法(第一外国語の違いで英法、独法、仏法と別れていました)に入ったのは第一高等学校で、東京帝国大学には経済学部に入っています。
旧制第一高等学校は東大教養学部の前身みたいなものなのでそれはいいとしましょう。

大正七年に井出クニを訪ねて行った時は肋膜炎でした。案内役の中学校長であった砂崎徳三と兄の眞一との3人でした。
(砂崎は大正十一年に隅田川高校の初代校長になっています。)
中学といっても旧制中学ですから、上流階級の子息が入る感じの学校だと思います。芹沢光治良は貧しいのに中学に入ったことによって村八分にあっています。
中学時代に修身で毎日日記を書いて校長に提出していたので、砂崎は芹沢光治良の日記を五年間読んでいました。彼の家庭や経済事情を熟知していたため、一高進学前の準備期間に仕事の世話など芹沢をサポートしています。

以上のことから、結核に冒されて死を覚悟しないといけない状態で、片道の交通費だけ渡されて井出クニを訪ねていったとの話は殆ど創作になっていると思います。

参考文献と引用
『芹沢光治良の世界』梶川敦子 p.127
一九一八年(大正七年) [井出国子]五十五歳。中学校長、砂崎氏に連れられ、兄・真一とともに国子を訪ねる。振動現象を見せられ、真一、即座に入信

『新潮日本文学アルバム62 芹沢光治良』p.104f
大正五年(一九一六) [芹沢光治良]二十歳
九月、第一高等学校文丁(仏法科)に入学。
大正八年(一九一九)二十三歳
七月、第一高等学校卒業。九月、東京帝国大学経済学部に入学。

『父、芹沢光治良、その愛』野沢朝子p.116
「親様とのご縁は、一高に在学中の父が肋膜と胃弱を助けていただくために、当時の天理教信者に連れられ、『兵庫県三木市高木』の井出クニ宅を訪ねたのが始まりらしい。
その頃の父は貧乏していて、三木までの旅費にも困っていたが、病気を治してほしい一心で行ったのだろう。このときに助けていただいたことから、知人に語ったり、のちに婚約した母やその両親を三木に連れて行くことにつながったのだと想像する。」
(初出、野沢朝子著『導かれるままに』2015年12月15日刊 21頁)

この辺りはもう少し残された文献を調べてみるつもりです。

それから東大の教授になったというのも違っていて、フランス留学から帰国後、中央大学の講師で貨幣論を教えましたが、新聞に連載小説を書いているのを学長が問題視して辞めて、それからは作家一筋です。

現実世界でこれだけ誤認があると、霊的世界の話にどれだけ信憑性があるのか分からなくなってきます。

以前書きましたが『神の微笑』に芹沢光治良の死の予言になっている部分があって、それについて、小平教授のモデルの松本滋さんがエッセーに書いているのが面白いです。

芹沢光治良 『死の扉の前で 』 「吻として」

2023-12-05 11:29:00 | 日記
あるスピリチュアル系の方が作家の芹沢光治良についてYouTubeでお話しされていたのを見ていたら、どうも私の記憶している事実と違っています。
結核で死にかかったのはフランス留学時代だし、仏文学者でもないし、東大の教授にもなっていない。
記憶を確認するため、著書の『神の微笑』や略歴を確認してみると、フランスで学んでいたのは経済学で、肺炎で死にかけ、ルルドの水で救われたが、結核に冒されていることが判明して高地で安静療法をして帰国。
出向前の農商務省(現・経済産業省、農林水産省)に戻れなくなって、中央大学で講師として貨幣論の講座を教えたが、新聞に連載小説を掲載していることを学長が問題視したため退職…

これがきっかけとなって芹沢光治良の当時のことを知りたくなって天理教の真柱との交流が描かれている『死の扉の前で』を読んでいます。この時代の作家を読むと読めない漢字がよくでてきますが今回「吻として」が分かりません。
文脈はこんな感じです。
「ただその先生方のなかに、諸井慶徳さんがいたので吻としたのです。この人が教内きっての立派な学者であることを、機会ある度に京大で学んだ未弟から尊敬をもっていろいろ聞かされていたから、この学者と一晩ともに過すことができれば、偶然の幸福だと思ったのです。」
流れから行くと「ほっとして」としか読めませんが、国語辞典を見ても漢和辞典を見ても出てないし、Yahoo!知恵袋の「吻とする気分とはどのような気分ですか?」の回答も納得できません。
「ほっとする」としか読めないと思う用例を『精選版日本国語大辞典』で探してみると…

舗道雑記帖(1933)<高田保>ボーナス擬談
「ニウヨーク人が、女優脚線の上下を見て吻と救はれた気持になって」

読本・昔話稲妻表紙(1806)一
「手燭をはっしと打落し、吻(ホ)とため息つきもあへず」

やはり「吻として」は「ほっとして」でしょうね。