シタテルヒコさんの現臨がどういうニュアンスを持つことばなのか気になって調べてみました。
現臨といわれても、ぱっと意味が分からないので、翻訳語として作られた感じがしますが、'Real Presence'の翻訳語として使われているのを見つけました。
これがどういう意味合いかは後で書くとして、現臨ということばでまず最初に浮かんだのはハイデガーで臨在と訳されていたギリシャ語、パルーシアπαρουσίαでした。ウーシアουσίαはエイミεἰμί[ある、存在するを意味する動詞]の現在分詞に抽象化の接尾辞-ίαがついたもの、在ること、存在、実体、本質を意味しますが、パルーシアはこのウーシアに「共に」、「近くに」を意味する接頭辞パラπαρα-が付いたものです。
それでパルーシアを調べてみると聖書で「共にいること」の意味でも用いられますが、キリストの再臨を示すことばでもありました。
ハイデガーはこれをAnwesenheitと独訳していますが、臨在の他に現前[目の前にあること]と邦訳されています。
彼ががキリストの再臨を意識しないでこのことばを使っているとは考えられないと思って調べると、辻村公一がそのものずばりを指摘しているのを見つけました。ハイデガーが『存在と時間』を思索することとなった根本経験に二つあり、一つは「存在の忘却の根本経験」、もう一つがパルーシアに関わるもので、こう記されています。
「すなわちハイデッガーは、 その箇所を筆者は今忘れてしまって指摘できないが、次の如きことを書いている。 すなわち『私の思索の道に稲妻のような閃き (Blitz) があったとすれば 、 それは"ウーシアουσία"の内に"パルーシアπαρουσία"が 閃いたということである』と。"パルーシアπαρουσία"は、それのうちにハイデッガーが生れ育ったところのキリスト教の信仰に於ては、終末に於けるキリストの再臨を意味しており、そのことを彼は熟知しているが、そういう意味は表面には現れておらず、『現臨、現在、現在性』(Präsenz, Anwesen, Anwesenheit) を 、ここでは意味する。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tja1948/51/1/51_1_1/_pdf/-char/ja
ここでもパルーシアの独訳のPräsenz(英語でPresence)の邦訳として現臨が出てきました。
ここで最初にわたしが現臨で検索して出てきた"Real Presence"に戻ると、これはミサのときパンと葡萄酒がキリストの体と血に変化するとき、それは霊的に現実的に存在するという解釈を示すカルヴァンのことばでした。
https://kanai.hatenablog.jp/entry/2012/08/16/172444
つまり現臨はキリストが再び私たちと共にいてくださるという意味の再臨と、ミサに於いて聖変化するパンと葡萄酒にキリストそのものの存在が共に在ることを意味することばの翻訳語として用いられていたようです。
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2022.01.30追記
シタテルヒコさんの定義が2016.07.06のブログにあったので引用します。
「心霊学などで守護霊と言われている霊的存在とされるものがありますね。
私は霊能者でないので、見たことも無いし、声を聞いたことも有りません。
何時も触れていますが、私が現臨(やたらとこういう表現をしますが、根本的に曰く言い難いもので、リアルに意識にアリアリと臨むあるもののことを、こう言っているのです)に捉えられるとか、”声なき声”を聞いたとか言っているのは、そういう事とは全く違う事を言っています。
これは意識状態の変容を伴っているという事であり、この現臨が臨んだ時、通常では見失っている自分自身を取り戻す、という感覚を覚えます。
つまり自分自身と現臨とは別在しているものでは無いのです。」
「現臨というのはキリスト教神秘主義でたまに使われているのを借用しているのです。私的にピッタリするので…大衆的にはスルーだろうけど…」
「人生の裏側」を過去記事から読んでいますが、 2015.3.21 出口聖師 にこんなふうに記されています。
"ハワイで活躍していたマスター、フーマンによれば、今まで日本の歴史上出現した中で最も偉大なマスターは、出口王仁三郎だと言います。
私はこれを知って、直接その話を聞いていたキヨタカさんと同じく「へえ…そんなものですかねえ?」と思わざるを得ませんでした。"
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わたしも清貴さんの本のこのくだりを読んで、空海も法然・親鸞もいるのに、そうなの?と思いました。
のちに四方庵にプンジャジの『覚醒の炎』を寄贈されたアキラさんとmixiで友人になり、彼のブログ「瑞霊に倣いて」の2021.8.19の記事を読んでいたら似たような話があって不可思議の念に打たれました。
------以下引用------
*今日は旧暦7月12日で、出口王仁三郎聖師の生誕日であり、新宿区上落合の道院・紅卍字会 日本総院では、 霊績真人兼中和成化普渡天尊誕日祭典が行われました(「霊績真人」とは、出口聖師のことです)。道院では求修して修方となったものは、死後は祀霊室に祀られることになっているのですが、出口聖師は別格に扱われています。
*出口王仁三郎聖師は、扶乩(フーチ)によって、この世で唯一人、最高神である至聖先天老祖(太乙老人)から直接に内流を受けている人物と告げられていましたので、このような特別の扱いがされています。出口聖師のような最高位の境地に達していると告げられた人物は、他には誰も、中国本土にもいません。かつて弘法大師空海が長安で恵果阿闍梨に会われるや、他の全ての中国人の弟子を差し置いて、空海一人に真言密教の全てが伝授されたことが思い出されます。
二冊の「本」
井上 忠
そこの棚にボロボロになったヘブライ語の旧約聖書と、ギリシア語の新約聖書がありますね。別に珍しい版本でもありませんが、ほら、この扉に「昭和十九年九月十八日 神田にて求む」と記入がありましょう、当時とにもかくにも手に入れることのできた本です。ただこの二冊の本を買ったいきさつをお話させていただこうと思います。
元来、聖書ともキリスト教ともなんの関わりもない環境でわたしは生まれ育ちました。両親がともに教員だったので、生後四十一日目から小学校にあがるまで、わたしは昼間のあいだ、生家と背中合わせの隣だったNという老人夫妻にあずけられて子守してもらいました。このじいちゃん・ばあちゃん(幼いわたしはそう呼んでいました)が、土地柄、熱心な安芸門徒で、質朴な信心そのものの暮らしぶりをしており、ことにお爺さんは剛気な風貌を残しながら、ほとんど妙好人といっていい人柄でした。
幼いわたしに、死と死を超えるものへの感覚が芽ばえはじめたのは、そうした日々のうちからでした。こんなこともありました。数え年五歳と六歳のとき、一度ずつですが、夢に阿弥陀さまが現われて、お前は五つで(次の年には、六つで)死ぬと言われ、ひとりで死ぬ淋しさ怖さに夜中に目覚めてふるえました。どちらの時か忘れましたが、たまりかねて父に訴えますと、いつも優しいひとなのに、「神経質な子だねえ」と言っただけだったので、子供心にも、自分の死の切なさが、そんなにありきたりの一言で片づけられるのに、なんだか肩すかしをくった意外感を禁じえませんでした。
もっとも開明家の父は坊主臭い「宗教」が真っ向から嫌いだったらしく、若くして歿した父の先妻の墓は、戒名など一切なく、俗名のままで今日でも中国山脈の奥懐に立っており、鉄道もない大正期には、草深い習俗の里にさぞ異彩を放っていたことでしょう。
むかしの高等学校、いまの駒場へ入りまして、青春お定まりの「人生の悩み」が始まりました。もっとも艶っぽい話にはなりません。人生って何だ? 自分では「大いなる価値転換」のつもりでも、跡を辿ればなんのことはない、ニーチェ、ショーペンハウエル、カントと、まずはデカンショ・ラインです。一新した風景を背に親鸞も懐しい想念の故郷として姿を現わしました。
しかし、この時期の極めつけは、自己とは何か? といった悩みでした。そしてこの問いは、疑問とか煩悶とかであるよりも、「自己」というコトバヘの執着、あるいはむしろこのコトバの魔術による呪縛であったようです。本を読もうとしても、なにか論じようと思っても、自分が何か分かってもいないのに、どうしてそんな呑気に「解説」をわがもの顔にできるのか、自分になんの権威があって、何がどうのと言葉を語り紡ぐことができるというのか。夜も昼もわたしにはこの台詞がまつわりつき、「現実を受け容れることは不可能であり、しかも同時にそれを受け容れないことも不可能である。……もはや壁に頭を打ちつけることしか残っていない」状況でした(引用はシェストフ「アントン・チェホフ」の一節ですが、この一句は、「無門関」の「この熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又吐き出さず」とともに、当時のわたしの究境をもっとも的確に描破したものとして、忘れられません)。
「自己」の一語は、全現実を崩落させ、事実としての自らの死をも退けて、絶望の永劫を垣間見せる想いでした。魂の永遠は、希望の明るさとしてではなく、死の事実をもってしても侵すことも、無化することもできぬ絶望の深淵として、まず現前してきました。それはわたしが人生で初めて出遭ったのっぴきならぬ原点でした。のちにわたしの書いた小さな記念碑「イデアイ」のなかでも、「眠るものは絶望者ではない。喰ふものは絶望者ではない。行動は逃避である。およそ事実に、おのが肉体なる事実にすら、妥協するものは、絶望者ではない。絶望は、一切の事実よりおのれを異ならしめ、ただ永遠に一貫して自己自身であらうとする凝縮の一点である」として、この原点が、結局わたしの哲学の出発点となったことを示しています。
むろんこの「絶望」方式は、キルケゴールの「死にいたる病」と同じ途を辿ったものです。岩波文庫に入っていたこの本も、当時の書籍事情で、とてもおいそれと入手できませんでした。偶然、この貴重な一冊をもっていた友人のI君から借りて、大学ノートに写してゆきました。一字一字が岩を刻む思いで、わたしの魂に響きつづけ、絶望の暗さと確乎さはついに写本する手すら凝結させました。眼すら見え難くなりました(そのとき何も言わず、母が写本をつづけてくれました。ですからいまも、後半が母の手になるこのノートが残っています)。
意識してはもはや眠るどころか、肉体をもって呼吸することすらできないと思われる一ヶ月余(「四十日四十夜」が人間の霊肉に対してもつ意味の精確さは恐るべきものです)。四周の世界は影絵みたいに薄墨み、わたし自身も影法師になったようでした。そしてその夕方影法師さながらのわたしは南寮(現東京大学教養学部第一研究室)の屋上で、通気塔によりかかりながら佇んでいました。
薄墨の世界が一気に裂けました。天地は眩い紫の光に明るく満ち溢れ、人の形に近い巨大な輝く姿が頭上に追ってきました。その時です、まったく予期しなかった声が、わたしの脚下から轟きました。
「汝の罪許されたり」
それはわたしが立て籠り、全現実を拒否し、魂の救いを宣べる言葉を排拒しぬいてきた絶対(と見えました)の牙城、絶望を、抵抗するすべもなく一挙に粉砕し、わたしを明るい無条件の自由と歓喜へと解放し去り、もはや一抹の疑惑の余地も残しませんでした。
思えばあの声は不思議でした。キルケゴールの「絶望」は自分の言葉として了解できても、それを「罪」とする点には、いつも違和感があり、自分を深重の罪人とする親鸞には馴染んでも、キリスト教の意味での罪を自分に引き当てたことはありませんでした(なにしろデカンショ教養程度だったのです)。なのに、あの声は紛れもなく、キリスト教の言語でありました。そして「自己」の抵抗はそれによって跡かたもなく解消されたのです。一九四四年九月十七日の夕景でした。
キリストの道に歩もう。それには「聖書」がなくてはならない。その折になって思い出したのは、田舎の家からもってきて、吉祥寺の知人の家にあずけてある書物のうちに、ほんの気紛れのように紛れ込んでいた父の聖書です。父がむかし英会話を習った宣教師から貰ったものらしく、父にもわたしにも別に興味もない代物だったのですが、ただ見事な革製天金の「本」というだけの理由でもってきてありました。その「本」がいまや十八歳半ばのわたしに暗夜に輝く灯台のごとくと燃え上がりました。その夜は、しかし、台風のせいらしい嵐となり、吉祥寺に急ぐわたしは、久我山あたりで帝都線が停電で止まってしまい、夜道をずぶ漏れになりながら、「本」にまで辿りついたのでした。
明くる日は快晴で、なにはともあれ「本」の原書をと、神田の古本屋街にかけつけ、持っていた全財産をはたいて、ヘブライ語とギリシア語の聖書を買い込みました。それがご覧の二冊です。(談)
(いのうえ・ただし 東京大学教授・哲学)
追記
ここで紹介した聖書特集のあとの井上の対談相手は八木誠一でした。
井上忠と玉城康四郎の対談は1975 年(昭和 50 年)10 月 31 日「道元の世界と哲学 」『理想』第513号で、この談話に先立っていますので、わたしの記憶と想定は間違っていました。
井上忠の『根拠よりの挑戦』を読んだ玉城康四郎が対談相手として井上を指名したことにより、この対談が成立しました。玉城は対談の冒頭で「〔井上〕 の問題意識が道元の根本問題と同質的なものだと、ぼくは感ずる」と指名の理由を述べています。
またキルケゴールの『死に至る病』を貸してくれた友人のI君は今道友信のようです。
2022.01.21