片づけをしていて強く感じたこと。それは、ガラクタで分離からくる欠乏感を埋めていた、ごまかしていたということ。
神から分離したと思いこんだことから生じた欠乏感が、神(愛 ※エゴのレベルの愛ではない)以外のもので埋まるわけがないのに。
なぜ欠乏感を感じているのか、何が欠けていると感じているのかそれを本当のところ自覚していないから、外側にある様々なもので埋めようとしている。
物以外でも、何かの活動でも、それが依存的なイメージをもつもの(アルコール、買い物、薬など)ではなくても、もしかしたら人助けのようなポジティブなことでも、無意識の欠乏感を埋めるためにやっていることはすべて、片づけるときに出てきたガラクタと同じなのかもしれないと思いました。(神と比べれば、この世界にあるものは全部ガラクタ?)
欠乏感を何で埋めようとしているかは人それぞれ。この世界でやっていることって、欠乏感を埋めるためのこと、もしくは欠乏感から目をそらすためのことばかりなのかも。
ここでなぜか思い出していたイエスの言葉。「人を裁いてはならない。自分が裁かれないためである」
みんなやっていることは結局同じって気がしたので。
本当は神から分離していないから、浮かびあがってきた欠乏感を赦して神に明け渡して、もうガラクタで埋めないようにハートを愛と光で満たしました。
神から分離したと思いこんだことから生じた欠乏感が、神(愛 ※エゴのレベルの愛ではない)以外のもので埋まるわけがないのに。
なぜ欠乏感を感じているのか、何が欠けていると感じているのかそれを本当のところ自覚していないから、外側にある様々なもので埋めようとしている。
物以外でも、何かの活動でも、それが依存的なイメージをもつもの(アルコール、買い物、薬など)ではなくても、もしかしたら人助けのようなポジティブなことでも、無意識の欠乏感を埋めるためにやっていることはすべて、片づけるときに出てきたガラクタと同じなのかもしれないと思いました。(神と比べれば、この世界にあるものは全部ガラクタ?)
欠乏感を何で埋めようとしているかは人それぞれ。この世界でやっていることって、欠乏感を埋めるためのこと、もしくは欠乏感から目をそらすためのことばかりなのかも。
ここでなぜか思い出していたイエスの言葉。「人を裁いてはならない。自分が裁かれないためである」
みんなやっていることは結局同じって気がしたので。
本当は神から分離していないから、浮かびあがってきた欠乏感を赦して神に明け渡して、もうガラクタで埋めないようにハートを愛と光で満たしました。
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