“それ”である本当の自分(エックハルト・トールの言うところの「意識の空間」?)に触れて、形ある自分が消えるビジョンを見てから、感じたことがあります。
目覚めたら、本当の自分に戻ったら、この現実で何をするかという違いに関しては意味はなくて、何をしてもそれは本当の自分である愛が愛を表現することになる、そう感じました。
目覚めるまでのエゴは、この世界で何をするかが重要だと思っていて、何をするかばかりを気にかけて、何を成したかを重要視する。
でも、目覚めた人が行えば、すべてが愛の表現となり、それは愛に満ちたものになる。
目覚める前と目覚めた後に現象として同じことをしているように見えても、それは同じではない、そう感じました。
何をするかが重要ではなくて、目覚めた意識で存在するか、エゴで存在するかだけなのだと。
それからサレンダーについて。
2016年に描いた2枚のカイヴァリヤと変容の7つの仮面(仮面に描く3、統合の仮面と本当の顔の仮面)、サレンダーの仮面を使って、一昨日自分にワークをしました。なんとなくそうしたくて、ワークをした感じです。
そのワークでサレンダーの仮面をイメージでかぶった時、今まで感じたことのないことを感じました。
サレンダーしないで自分でやるって背負っていたことが、どれほど重荷だったか。
肩の荷を背負っていることが当たり前すぎて、それを下しても大丈夫だと知らなくて、サレンダーしてもいいのだとわかったらホッとして。
私、サレンダーしたかったんだって。
覚醒者ムージの本「絶対なるものの息」で、レストランに自分でメニューを持っていく人はいないという文章を見ました。
サレンダーしないで自分でコントロールしようとするのは、神のレストランに自分の作ったお粗末なメニューを持っていって、そのメニューから注文するようなものなのかもしれません。
きっと、自分のメニューより、神様のメニューの方が素晴らしい食事が出てくると思うのですが。(笑)
自分のメニューにこだわるのはエゴ(自我)としてあるからで、何をするかが重要だと思っているからなのではと思いました。
覚醒者ムージが、最上の癒しは“目覚めること”と言っています。
やはり、“目覚める”です。
目覚めたら、本当の自分に戻ったら、この現実で何をするかという違いに関しては意味はなくて、何をしてもそれは本当の自分である愛が愛を表現することになる、そう感じました。
目覚めるまでのエゴは、この世界で何をするかが重要だと思っていて、何をするかばかりを気にかけて、何を成したかを重要視する。
でも、目覚めた人が行えば、すべてが愛の表現となり、それは愛に満ちたものになる。
目覚める前と目覚めた後に現象として同じことをしているように見えても、それは同じではない、そう感じました。
何をするかが重要ではなくて、目覚めた意識で存在するか、エゴで存在するかだけなのだと。
それからサレンダーについて。
2016年に描いた2枚のカイヴァリヤと変容の7つの仮面(仮面に描く3、統合の仮面と本当の顔の仮面)、サレンダーの仮面を使って、一昨日自分にワークをしました。なんとなくそうしたくて、ワークをした感じです。
そのワークでサレンダーの仮面をイメージでかぶった時、今まで感じたことのないことを感じました。
サレンダーしないで自分でやるって背負っていたことが、どれほど重荷だったか。
肩の荷を背負っていることが当たり前すぎて、それを下しても大丈夫だと知らなくて、サレンダーしてもいいのだとわかったらホッとして。
私、サレンダーしたかったんだって。
覚醒者ムージの本「絶対なるものの息」で、レストランに自分でメニューを持っていく人はいないという文章を見ました。
サレンダーしないで自分でコントロールしようとするのは、神のレストランに自分の作ったお粗末なメニューを持っていって、そのメニューから注文するようなものなのかもしれません。
きっと、自分のメニューより、神様のメニューの方が素晴らしい食事が出てくると思うのですが。(笑)
自分のメニューにこだわるのはエゴ(自我)としてあるからで、何をするかが重要だと思っているからなのではと思いました。
覚醒者ムージが、最上の癒しは“目覚めること”と言っています。
やはり、“目覚める”です。
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